ありがとう。
あなたの分まで必ずハッピーエンドの
人生で終えようと思います。

「アンハッピーエンドじゃ終われない」

 10歳から始めたサッカーに夢中になり、Jリーガーに憧れて21歳まで必死にボールを追いかける毎日を送りました。体力には一番自信を持ち、サッカーを諦めた後は全力で仕事に打ち込み、仕事も遊びも全力。28歳で結婚を決意する相手もできて、人生最高の充実した毎日を送っていました。
 ただ、25歳を過ぎたあたりから体力の衰え?と異変を感じていました。階段を上ると息が切れる。趣味のサッカーでも全然動けなくなる。「何かがおかしい」そう感じた僕はプロポーズを前にこの問題を解決しようと病院を受診しました。

 3ヵ月以上にわたる検査の結果、言い渡されたのは治療法もない原因不明の難病、肺動脈性肺高血圧症でした。「どうなるんですか?手術を受けたらずっと生きられますか?」の問いに医師からは「徐々に肺の機能が落ちるので将来的に肺移植が必要です。肺移植の術後5年の生存率は48%です」と告げられました。
“オワタ”  

 頭が真っ白になりました。この時から毎日「死にたい」と自殺願望を抱える生活が始まりました。彼女には病気を告げずに別れ、周りにも隠したまま無理をして仕事をし、センターサークルから出ることすらできない体でサッカーもしました。このネガティブマインドな毎日で確実に病状は悪化していきました。徐々に体は動かなくなり、29歳でついに体が限界を迎え、緊急搬送されました。

 当時日本で一番の肺移植の名医がいる病院へ行くと「心不全を起こしているので肺移植に耐えられません。心肺同時移植が必要なので他の病院へ転院してもらいます」と告げられ、日本一の名医でも手に負えず、当時1例もなかった心肺同時移植を言い渡されました。「恐らく手術を受けても40歳の誕生日を迎えるのは難しいでしょう」と告げられます。
“オワタ”

 2022年に公開された映画「余命10年」とまさに同じ病気に心不全のおまけ付きで、ついに死は避けられない状況を迎え、絶対安静で点滴を受けた5ヵ月の入院中には、地元から遠く離れた地で廃人のような生活を送りました。その後一時退院し、1年の自宅療養生活を送ることになります。

ボールを蹴るハーティ

 幸いデザイナーという座ってできる仕事をしていたので、アルバイトから仕事復帰を果たすと徐々に気持ちはポジティブに変化し、体調も良くなってきました。数年のサラリーマン生活を経て「残された人生」に向き合い、どう生きるのが正解かを考えました。

 35歳で「この世に遺せるようなクリエイティブを!」と独立開業し、大好きなサッカー界に足跡を残したいと、子供たちにサッカーボールを無料配布するイベントを立ち上げました。そして2010年から現在に至るまで約15年間で7,500球以上のサッカーボールを届け、7,500人以上の子供たちを笑顔にしてきました。

 毎年たくさんの子供たちの笑顔を見てポジティブに生きた結果、「余命10年」と言われてから約20年が経とうとしていました。ポジティブマインドは確実に病気の進行を遅らせていたのです。しかしコロナが猛威を振るう頃、僕の体は流石に限界を迎えていました。
“オワタ”

 ついにその時が来る。全てを終わらせ会社も廃業し、遺影写真を撮り、生前葬まで終えた僕でしたが、いざ手術を目前にすると怖くなりました。「やっぱりやめようか、今更そんなこと言えないか」と葛藤の日々を鬱々と過ごしましたがある日、「そうか、どうせやるなら死んだら損じゃないか。じゃあ手術するなら絶対死んじゃダメだ」そう強く心に決め、両肺の移植手術を受けました。

 手術後ICUで目を覚ますと胸に4本、口、鼻、尿道からチューブ、心電図3本、酸素濃度計1本のコード、鼠径部と両手に計3本の点滴チューブ、暴れないように両手を縛られる、まさにガリバー状態でした。痛みと苦しみに加え、目を閉じると鎮痛剤による幻覚や幻聴によって三途の川や幽体離脱、バーチャルの世界のような映像が始まりました。7日くらい経つと鎮痛剤は減り始めましたが、今度は目を開けていても画家ダリの世界観で時計が溶けていったり、壁から獣が襲いかかってくる、エアコンの通風口からねぶたのような顔が睨んでいるなど壮絶な体験をしました。  
 奇しくもサッカー日本代表が試合をしている時、看護師さんがサッカー好きな僕のためにテレビをつけてくれましたが、それどころではなく、まさに「絶対に負けられない戦い」をこちらも戦っていました。

 そして10日後、一般病棟に移ると光の中に包まれるような感覚で幻覚から解放され、まさに生死の境から戻ってきた感覚でした。当時はコロナで面会謝絶でしたが、夜のサッカー中継でモチベーションを高め、昼間は懸命にリハビリを行い、テレビで流れるグラタンコロッケバーガーのCMを見ては1日も早く味のしない病院食から逃れたい一心で退院を目指しました。手術から40日後、ついに退院し地元静岡の駅に着いて一番最初に食べたグラタンコロッケバーガーの味は一生忘れないでしょう。

 普通に階段を上ったり歩いたり、街ブラをしたり肩まで湯船に浸かれたり、当たり前のことができる喜びを感じながら順調に回復していきました。しかし、様々な制限が緩まる術後半年を目前にし、友人と釣りに行く約束をしたり、食事に行く約束をした直後のGW前のある朝、謎の呼吸困難に陥り救急搬送されてしまいました。

 気がつくとそこは病院のICU。右の肺が原因不明の閉塞を起こしてしまい、地元の病院では対応できずドクターヘリで運ばれ、再び緊急手術を受けることになってしまいました。
“オワタ”

ラジオを聴くイヌ

 「今度こそオワタ。原因不明でこんな手術を受ける恐怖を抱えて生きるなんて無理だ」一命は取り留め目を覚ました3日後くらいのある日、再び幻覚が始まり、痛みの中で絶望のどん底にいた僕はもう生きることへ恐怖を感じ、退院できても自殺しようと考えていました。そんな時に看護師さんが持ってきてくれたラジオから流れてきた曲「STAY DREAM」に救われたのです。

 歌詞が刺さりすぎて大号泣した僕は「確かにくよくよしたって仕方ないか」と気持ちを切り替え、1日も早く退院して生きることを決めました。それによって体調は驚くほどに回復し、救急搬送からわずか17日で退院することができたのです。

 28歳までの人生、そこから50歳までの人生。そして動く体を再び手に入れた第三章ともいえる人生をどう送るか。考えた結果地元を離れ、再出発をしました。僕の人生には何度も「オワタ」と言える瞬間が来ました。人には精神力が凄いとかポジティブで素晴らしいと言われることもありますが、今回語った通りどん底のネガティブな瞬間も同じくらいあるのです。ただ、この壮絶な人生を送った経験から言えるのは間違い無くネガティブな時は体も死に向かい、ポジティブにいる時はそこから遠ざかっていたのです。

 この経験は僕が特別だからでは無く、みんな誰もが経験することなのです。その事象の大小こそあれ、人生にはもうこれ以上先へは進めないと思える壁が目の前に立ちはだかることがたくさんあります。そんな時こそ手探りしながらでもポジティブマインドで夢を見続けることが生きるということなんだと思います。

 僕は東京に出て、サッカーボールを子供たちに届ける活動を全国に広げるという夢があります。自分の命がこの世に存在を遺すと同時にそれが新しい夢という命のエナジーになり広がっていくことが、残された自分の使命だと思っています。

 僕に二つの肺をくれた、会うことのできなかった命の恩人の分まで充実して生きることが感謝の気持ちを伝えることだと思っています。ありがとう。あなたの分まで必ずハッピーエンドの人生で終えようと思います。


【関連のある肺の病気】

● 肺動脈性肺高血圧症
肺の血管が細くなり、心臓から肺に血液を送りにくくなる病気。強い息切れや心不全を引き起こし、進行すると命に関わる。

知ってみよう!臓器移植にまつわるお仕事

肺移植医

お話を伺った方 東京大学医学部附属病院 呼吸器外科 教授 佐藤雅昭先生

患者さんの命を支える最前線 ― 移植医という仕事

私は東京大学医学部附属病院で、主に肺移植を中心とした臓器移植医療に携わっています。肺移植とは、肺の機能が低下した患者さんに、ドナー(臓器を提供する人)の健康な肺を移植することで、命をつなぐ治療です。呼吸が難しく、日常生活もままならないほどの病気の方が、移植を受けて元気な生活を取り戻すことができます。医師として、私たちは患者さんの診察から手術、退院後のケアまで、患者さんのすべての治療過程に伴走します。

当院には、全国から患者さんが来られます。外来で検査や診察を行い、移植の必要性を慎重に判断したうえで、日本臓器移植ネットワークに登録します。臓器のご提供があれば、病院に緊急連絡が入り、手術に進むかどうかをすぐに判断します。移植手術後はICU(集中治療室)や病棟で回復を見守り、退院後も長く外来で様子を見ていきます。

また、私は肺移植の責任者としてチームを牽引し、院内の臓器移植センター副センター長として他部署との連携や調整も行っています。患者さんに直接関わらない業務も多いですが、こうした準備や調整があってこそ、移植医療は初めて成り立ちます。日々の地道な努力も、患者さんの命を守る大切な仕事です。

医師を志した原点

私が医師になろうと思ったきっかけは、中学・高校のころに肺の病気で手術を受けたことです。入院中にお世話になった医師や看護師さんの姿を見て、「いつか自分も困っている人を助けたい」と強く思ったのが、医師を目指す原点です。

その後、京都大学に進学し、呼吸器外科を専門に学びました。当時の日本では、肺移植はまだ始まったばかりで、症例も少なく、実施している病院も限られていました。「これから新しい医療が始まる」と感じ、自分もその一員として関わりたいと思いました。

しかし、肺移植の経験を積むのは簡単ではありませんでした。そこで2003年、カナダのトロント大学に留学しました。トロント大学は、世界で初めて肺移植に成功した病院で、手術の方法だけでなく、術前の準備や術後の管理まで幅広く学べる場所でした。ここで8年間、研究と手術の両方を経験し、肺移植医としての基礎を身につけました。

患者さんの人生を変える肺移植

一般的な外科手術とは異なり、肺移植では、患者さんの人生が大きく変わる瞬間に立ち会うことがあります。例えば、手術前は人工呼吸器に頼るほど重篤で、日常生活もままならなかった患者さんが、手術後にはICUで回復を見守りながらリハビリを行い、野球やスノーボードを楽しめるまで元気になったこともあります。さらに、命をつなぐ装置であるECMOを使うほど危険な状態だった方も、肺移植を受けて社会復帰されています。こうした劇的な回復の瞬間は、医師やスタッフにとって大きな喜びです。

そして、この奇跡は医師だけの力では生まれません。臓器を提供してくださった方やご家族、看護師、リハビリスタッフ、臨床工学技士など、多くの人の協力があって初めて起こり得るのです。その一部に関われることが、移植医としてのやりがいであり、幸せな瞬間です。
もちろん、体調や経過によって思うようにいかないこともあります。それでも、回復の一歩一歩を見守り、支えることには大きな意味があります。

当院では、現在年間50〜60件の肺移植が行われています。昔では考えられなかった規模ですが、今では普通の医療として定着しています。日々多くの患者さんと向き合う中で、移植医療は毎日が新しい奇跡の連続です。

移植医として大切にしていること

私が移植医として最も大切にしているのは、患者さんの気持ちや生活に寄り添うことです。移植を受けるかどうかは大きな決断です。「人の臓器をもらってまで生きたくない」と考える方もいます。その気持ちは尊重し、無理に押しつけることは決してありません。

一方で、移植を受けることを決めた患者さんには、「これは自分だけの体ではない」という自覚が大切です。臓器を提供してくださった方やご家族の思いが込められているため、薬をきちんと飲むことや生活管理を怠らないことは、ドナーの思いと臓器を大切にする責任でもあります。

移植後も薬の服用や生活管理は欠かせません。それでも、せっかく元気になった患者さんには、日常生活や趣味を楽しみ、人生を豊かに送ってほしいと願っています。そのバランスを大切にしながら、毎日患者さんと向き合うことが、私にとっての移植医としての使命です。

日本の臓器移植医療の現状と思い

日本の臓器移植医療は、技術面では進んでいます。しかし、制度や体制の面ではまだ改善の余地があり、医療者としても、もどかしい思いを抱くことがあります。

しかし、病院だけの努力には限界があります。国としての支援や制度の整備が不可欠であり、この分野をどう進めるかはとても大切な問題です。

臓器移植の意義は、人の命を救うだけにとどまりません。亡くなった方やそのご家族の善意によって引き継がれた命が、移植を受けた方とともに元気に社会で活躍することは、多くの人に希望と感動を届けます。提供者やその家族の思いを受け取り、患者さんが生き生きと暮らしていく――命のつながりを支えるこうした実践は、社会全体にとっても意義深いものです。

自分の未来を守るために、移植の可能性を知る

移植が必要かどうかに最初に気づくのは、多くの場合、移植を専門とする先生とは限りません。そのため、患者さん自身も自分の病気や治療の選択肢を知り、移植の可能性について理解しておくことは大切です。

移植は最終手段として考えられますが、知っておくことで希望の選択肢になります。自分の未来を守るために、移植について情報を得て考えることは、一歩前に進む大切な行動です。

希望をつなぐ移植医療

日本の臓器移植医療は着実に進歩していますが、制度の整備や移植の理解を広めること、医療者への教育を進めることで、より多くの命が救われ、希望が広がる社会をつくることができます。移植医として、私はこれからも患者さんに寄り添い、希望をつなぐ医療を提供していきたいと思っています。

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