今度はわたしが誰かの役に立ちたい。
恩返しをしていきたい。

肝臓移植経験者の手記

 私は小学2年生の夏休みのある日、突然入院することになりました。

 最初は何で入院しなくてはいけないか分からず、お父さんと2人で病院にお泊りするぐらいにしか思っていませんでした。入院して検査の日が続き、病院の引っ越しも何回かしましたが、原因は分かりませんでした。いつも先生や看護師さんたちが優しく話しかけてくれていたので、あまり怖くありませんでした。ただ、体に管がいっぱいついていて、動くと引っ張られたり絡まったりして痛いし、動きにくいのがすごくつらかったです。病院のベッドから降りられず、トイレに行けないのも嫌でした。

  だんだんと原因が分かってきて、最初は薬で治そうと言われました。だけどいくら薬を飲んでも全然良くならず、途中から「それでは治らないかもしれないから誰かから肝臓をもらう手術をしなくてはならなくなるかも」と言われました。先生に「お父さんとお母さんは手術って聞いて泣いてたのに、なんでのぞみちゃんは泣かないの?」と言われましたが、「手術」が何か分からなかったので、あまり怖くありませんでした。後で手術が何かを知って、薬とかではなくおなかを切るの?おなかを開けて何するの?怖いなぁと思いました。

  手術をしなくて済むために、「透析」(*1)という血をきれいにする方法を試さないかと言われました。それはICU(集中治療室)というところにお父さんやお母さんと離れて一人で泊まらないとならなかったから、とても寂しかったです。それから針を首に刺して管をつけるとも聞いていたので、ものすごく怖かったです。その治療は多分長くないと言われていたので、早く良くなって、大好きな家に帰れるなら頑張ってみようと思いました。でも実際は、そのままICUから出られなくなってしまい、やっぱりおなかを切るしか方法はないと言われて、すごいがっかりしたのと怖いのとで気持ちがいっぱいになりました。

  それから移植手術が終わるまでのことは、麻酔が効いていたこともあって、あまり覚えていません。手術が終わったことは目が覚めてから知りました。目が覚めてからはとにかく痛みで眠れず、痛み止めの薬も効かなくて、体の向きは変えたいけれど痛くて体を触られたくなくて、全てのことに怒ってしまう日が何日も続きました。痰が溜まるのに口に着けた酸素マスクが邪魔なのが苦しかったし、のどに管が入っていてしゃべれないから気持ちが伝えられなくて悲しくなったし、しばらく絶飲食(食べたり飲んだりしてはいけない)だったのも本当につらかったです。手術の後、体が黄色くなった(黄疸)自分の姿はとてもショックでした。初めて自分のおなかの傷を見たときは、ホッチキスで止まっているのが怖かったし、思ったより傷が大きかったのも本当にショックでした。傷がすごく大きかったので、学校でプールのときにみんなの前で着替えるときに見られるのが怖いなぁ、恥ずかしいなぁと思い、また泣いてしまいました。そのとき、手術をしてくれた先生が、「その傷はみんなで頑張った証拠だから恥ずかしがらなくていいんだよ」と励ましてくれたので、すごく嬉しくて勇気が出ました。大変なときに、クラスの先生やみんなからのメッセージや写真が送られてきたのも、とても嬉しかったです。

  今はもう元気になり、運動会やマラソン大会にも出られるようになりました。またお父さんとサイクリングに行ったり、トランポリンもできるようになりました。手術をしなかったら死んでしまっていたかもしれないと聞いて、手術をしたことで、また家族や友だちと楽しい生活ができるようになったので、やっぱり手術をして良かったと思います。どこかの誰かが私を助けてくれたこと、その人はもう死んでしまったことを聞いて、ありがとうという気持ちと、(臓器提供の意思表示をしていたことに対して)すごい勇気だなと思いました。先生や看護師さんや、応援してくれたたくさんの人たちにも本当に感謝しています。病気になるまでの私は健康な生活をしていて、知らないで過ごしていたことがたくさんあったことも知りました。これからは私も臓器提供の意思表示をしたい、誰かのために自分の体験を通して移植医療や病気の子どもとその家族の様子についてたくさんの人に知ってもらいたい、と思うようになりました。誰かの役に立ちたいから、(お父さんに手伝ってもらって)入院で寂しい思いをしている子どもたちを励ます絵本を作ったり、市民講座などみんなの前で私のことを話したりするようにしています。そして将来は移植コーディネーター(*2)になって、私を助けてくれた先生や看護師さんたちと一緒に働きたいです。私にしかできないやり方で、たくさんの患者さんの力になって、今までの恩返しをしていきたいと思っています。

*1 透析:体の中の老廃物などいらないものを取り除く治療
*2 移植コーディネーター: 臓器をあげてもいいという人やその家族の思いを活かし、臓器移植を受けたい人に正しく・速やかに臓器が贈られるように“いのちの橋渡し”を仕事とする人

父の手記

 娘が小学校2年生の夏休みに入ってすぐ、突然近くの病院から電話がかかってきて緊急入院を勧められました。娘は夕方まで私と普通に元気に遊んでいたので、最初は何のことか全く分かりませんでした。実は、すぐ疲れる娘の様子に異変を感じていた家内が、病院を何軒も回り、異常はないと言われ続けても納得がいかず、最後の病院の血液検査で異常がみつかりました。

  肝臓の異常だとすぐに判明しました。しかし肝臓の異常の原因はたくさんあるらしく、そのうちの一つの食中毒程度だろうと考えていましたが、その後も検査のため何軒かの病院を転院したり、ICUに入らないといけないなどと言われたりするうちに、だんだんと不安が大きくなっていきました。そして最後の転院先で先天性の肝臓の異常であることが判明し、既にかなり危険な状態であることなどが伝えられました。この段階ではまだ薬での治療を試みる段階でした。しかし、暫く薬を続けても一向に良くならないどころか、目に見えて悪化する数値、毎日のように輸血をしても追いつかない日々。そのくらい悪くなっていたのでしょう。それでも本人はいたって元気だったので、何かの間違いであることを祈りながら入院生活を続けていました。

  そんなある日、小児科ではなく移植外科の先生の話を聞くことになりました。臓器移植なんてニュースの中だけのどこかの誰かの話だと思っていたし、しかも直前まで普通の生活をしていた自分の娘が誰かの臓器をもらうなんて考えもしなかったので、なぜ私たちがそんな話を聞くのか、正直混乱しました。話を聞いた上で、万が一のために移植希望登録だけは行いましたが、最初は当然、移植をしなくても済む治療にすがっていました。その一つに透析がありました。もしかしたら早ければ1週間ほどで効果が出るかもしれない、ICUでの治療なので親とは隔離になる、でも良くなれば家に帰れるようになるかもしれない、そう言って嫌がる娘を説得し、透析に踏み切ることになりました。しかし、またもや思うように効果が出ない治療、長引くつらい治療で明るかった娘が表情をなくしていく様子、手を握っても握り返してもこなくなる娘の変化に、あの笑顔が二度と戻ってこなかったら…と、毎日の見舞いのたびに夫婦で涙を流していました。この時、再度移植外科の先生が我々を訪れました。そして、このままでは時間の問題と、突然の余命宣告のような現状を突き付けられ、娘のためにも移植を治療の主軸にしていく決意をしました。

  移植を待っている間は、誰かの死を待っているようで、本当に心苦しかったです。また、長い待機中に亡くなる方も多いと聞いていたので、毎日娘を失う恐怖とも闘いながら過ごしていました。臓器提供があった時の電話も取り逃してはいけない、判断が遅れてはいけないと、常に娘が生き延びるチャンスをつかまなければと緊張していました。娘が重症だったことで待機順位は上位だったようで比較的すぐに移植の機会が回ってきました。連絡があったらすぐにお願いすると家内と決めていたので、決断は早かったです。電話がかかってきたときには、なんとか間に合ったとホッとしましたが、まだ娘の笑顔が戻ってきたわけではなかったので、不安が大きかったことに変わりはありませんでした。

  移植手術当日は早朝から病院に向かいました。手術室に向かう娘は薬でもうろうとしていたので、手を握って見送りました。手術は10時間を超え、手術直後の先生の真っ赤に充血した目は今でも忘れられません。痛みで夜通し泣き叫ぶ娘に寄り添ってくれた看護師さんたちをはじめ、本当にたくさんの方々が娘のために頑張ってくれたのだと感じました。一時は長いICU生活で筋力がだいぶ落ち、腕や足はまるで枝のように骨と皮だけになり、一人では立てない時期もありました。ICUの帰り際はいつも、痛みと親と隔離された寂しさで手を放してくれず、私たちの姿が見えなくなってもいつまでも「帰らないでー、戻ってきてー」と泣いて呼び続ける声を聞きながら帰っていました。手術後の娘の容体は順風満帆とはいきませんでしたが、担当の看護師さんの「大なり小なりあってもみんな良くなっていくから」との言葉を信じ、家族で乗り越えてきました。本当にその通りでした。

  今では以前のように我が家のムードメーカーとして、娘の明るい声が家族を包み込んでくれています。娘の回復を我が身のように喜んでくださった医療関係者の方々へは、とにかく感謝の気持ちでいっぱいです。そして娘の元気になった姿を見るたび、温かい手を握るたびにドナーさんと、ドナーさんの意思を尊重してくださったご家族の方への感謝があふれ出してきます。

  娘は退院後に、恩返しを兼ねて自分の体験を通じて移植医療について一人でも多くの方に知ってもらいたいと言い出しました。夏休みに市民講座で話をした際には、看護師を目指す高校生や市民の方々が話を聞きに来てくれました。こういった活動を通し、娘のように救われる命を一つでも増やせたらと願っています。

※PDFは、小学校低学年の方でも読めるよう一部の漢字にふりがなをふっています。

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