初めまして。
これから二人三脚で一緒に生きていきましょう。

 私は幼い頃からレスリングをしており、病気とは無縁の人生でした。大学を卒業後は、カナダでレスリングを続けながら英語を学び、帰国後は地元で高校の教員として仕事を始めました。この先の未来に期待を膨らませながら、充実した毎日を過ごしていました。

 体調の変化に気づいたのは2015年冬頃でした。咳が出始め、息があがるようになりました。そのときは「ただの風邪かな」と何も気にしていませんでしたが、徐々に咳もひどくなり、動悸、胸やけ、足が浮腫むようになりました。4月に夜間病院へ行き、そのまま緊急入院となりました。それでも私は1、2週間で退院できるだろうと思っていました。しかし、医師から告げられたのは「心臓移植が必要です」との言葉でした。その瞬間、頭が真っ白になりました。心臓移植という言葉は、テレビや新聞でしか見聞きしたことがなく、まさか自分の身に起こるとは夢にも思いませんでした。「なぜ自分が、これは夢に違いない!」医師の言葉も全く受け入れられませんでした。そのとき、頭をよぎったのは当時交際をしていたイギリス人の彼女の存在でした。将来的に海外での生活も考えていた矢先の出来事に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。「イギリスに帰ってもいいよ、あなたの人生を邪魔したくない」と伝えると「私の人生は自分で決める。私はあなたのそばにいる」と言ってくれました。その言葉は絶望のどん底にいた私に一筋の光が差したようでした。支えてくれる家族、そして彼女のために心臓移植を目指して闘病をすることを決意しました。

 病名は「特発性拡張型心筋症」という心臓の難病で、そこから闘病生活が始まりました。運動をしたり、仕事をしたり、家族や友達と過ごしたりという当たり前だった生活は、どこか遠い昔のことのように感じられ、1日の大半をベッドか車椅子の上で過ごすという生活になりました。その後他県へ転院し、すぐに補助人工心臓という機械を心臓に埋め込む手術を受け、心臓移植希望登録者としての生活が始まりました。機械が取り付けられた自分の体を見たときに、「もう後戻りはできないんだな」と実感したと同時に、「何としても生き抜きたい」と強く思ったのを覚えています。補助人工心臓を着けて、少しずつリハビリをしていく中で、自力で外を歩けるようになったときの感動は今でも忘れられません。

移植直前
 移植直前

 その後退院をしてリハビリを続けた後、地元に戻り、社会復帰を模索するようになりました。障害者手帳を手にした自分は、自信も体力も全て失っており、社会復帰も半ば諦めていましたが、とある通信制高校の採用担当者から「あなたがしてきた経験をぜひ生徒や他の教員に伝えてほしい。私たちはあなたを必要としている」と言っていただいたときは、面接中にも関わらず涙が溢れました。

 それからしばらくして体調も安定してきたので、「この運命を背負った自分が社会のためにできることは何か?」と考えるようになりました。そこで始めたのが、講演会活動と移植医療の普及啓発活動でした。講演会活動では私の経験を通して、さまざまな世代の方たちに「命や家族の大切さ、当たり前の生活への感謝」を伝えるようになりました。また、移植希望登録者である私が話をすることで、より身近に補助人工心臓や移植医療のことも知ってもらいたいと思うようになりました。移植を待つ身として、そういった話をすることに葛藤もありましたが、私だから伝えられることもあるのではと思い、「2%の奇跡*」や、「グリーンリボンキャンペーン」のことを講演会でも話をするようになりました。そうすると多くの方たちから反響があり、「移植医療の普及啓発に協力したい、家族と意思表示について話をした」といった感想をもらうようになりました。その後、仲間と協力し、音楽などを通して移植医療について知ってもらうイベントを開催するようになりました。とても地道な活動ですが、少しでも多くの方に移植医療について知ってもらうことで、「命や家族の大切さ」についても考えてもらえたらと思っています。

 さまざまな活動をしていく中でも、合併症などのリスクや機械の不具合など、死の恐怖とは常に隣り合わせでした。職場や家族の前では元気に振る舞っていても、1人になると不安に襲われ、弱気になってしまうことも多くありました。移植待機期間が長くなるにつれて、本当に移植は巡って来るのかと疑問に思うこともありました。数年が経過し、移植の順番が近いと言われてからは、仕事や講演会活動などのペースを落とし、その日が来るまで最大限の心と体の準備をするようにしました。それが臓器を提供してくださる方(ドナー)への自分ができる敬意と感謝だと思ったからです。実際に電話があったときは、自分でも驚くほど静かな気持ちで医師の話を聞き、ドナーの方のご冥福をお祈りし、またその意思に対して心から感謝をしながら、病院へ向かいました。

 移植手術を受ける前、自分の胸に手をあてて、今までレスリングのつらい練習や、闘病生活を一緒に乗り越えてきた自分の心臓に「今までありがとう」と伝えました。そして、麻酔から覚めた後、私の体には補助人工心臓の機械はなく、ドナーさんから頂いた心臓が力強く鼓動を打っていました。私はまた胸に手をあてて「初めまして。これから二人三脚で一緒に生きていきましょう」と伝えました。自分は1人じゃないんだと思うと、力が湧いてきました。

 その後は感染症などに気をつけながら検査やリハビリを続け、無事退院することができました。補助人工心臓のカバンがない生活は、いい意味で慣れるのに少し時間がかかりました。移植待機中は24時間介助者がそばにいることが必要でしたが、移植を受けた後は1人で行動ができるようになります。退院後、元気だった頃によく聞いていた曲を聴きながら、1人で公園に向かっていたときに、おもむろに大粒の涙が溢れました。「止まっていた時計がまた動き出したんだ」涙を拭い真っすぐに前を見つめました。

 今では少しずつ運動もできるようになり、移植待機中には諦めていたこともたくさんできるようになりました。また、妻となった彼女との間に新しい生命を授かり、最愛の娘が誕生しました。ドナーさんからの命のリレーのおかげで、私が救われ、さらにそこからまた新しい命が生まれました。娘と一緒にいろんなところに出かけたり、遊んだり、思いっきり抱き上げてあげたり。これまでいろいろとつらいこともありましたが、新しい家族を迎え、これまで感じたことのない幸せを実感する毎日です。

 移植医療は本当に素晴らしい医療だと自らが経験し実感しています。この医療はドナーさんの存在があって初めて成り立つ医療です。私はこうして生活ができているのも、ドナーさん、そしてドナー家族の存在があってだと心から感謝をしています。また、いつも支えてくれた医療スタッフ、移植コーディネーターの方々に心より御礼申し上げます。そしてどんなことも一緒に乗り越えてきた家族、そしていつもそばで支えてくれ、今は生涯のパートナーになってくれた妻のおかげでここまでたどり着くことができました。これからは健康に気をつけながら、自身の経験や学んだこと、ドナーさん、ドナー家族への感謝、そして移植医療で元気になった自分の姿を発信して、1人でも多くの人たちに移植医療のことを知ってもらいたいと思っています。

* 移植希望登録者のうち、約2%の人しか臓器移植を受けられない日本の現状

移植後に生まれた娘と
 移植後に生まれた娘と

妻の手記(日本語訳)

English(英語原文はこちら)

 Heart break(悲嘆)、pain(痛み)、adapt(順応)、love(愛) and appreciation(感謝)。この5つのワードは、夫の心臓移植までの闘病、夫の家族、そして私自身のまるでジェットコースターのような生活の日々を表現した言葉です。

 2015年に突然、当時交際していた彼が入院し拡張型心筋症と診断されてから、私たちの人生は大きく変わりました。突然の事故や病気は、本人はもとよりその家族や大切な人にも大きな影響を与えます。ある日、大切な人が突然重い病気で倒れたらどうするのかなんて考えている人は誰もいません。私の場合も、恋人が重い病気になるなんて、予想もできなかったし、どうしていいか全く分かりませんでした。しかし、私たちの闘病生活は何かを失った悲しい話ではなく、家族の団結、困難に立ち向かう力、そして愛の素晴らしさを教えてくれました。「人間の人格は最も暗闇に落ちているときこそ形成されるからである」

 彼が心臓の病と診断され入院したときには、まさかそれが長い闘病生活の始まりだとは想像もしていませんでした。ただの風邪だと思っていたのに、なぜ家族はみな深刻な顔をしているのだろう?翻訳機能を使いながら、医師の話を理解しようと必死で、そしてとても不安でした。翻訳で『拡張型心筋症』と出たときには、そんなはずはない、翻訳入力を間違えたと思いました。何度も辞書やインターネットで調べても、厳しい現実ばかりでした。毎朝目が覚めたとき、「全ては悪夢?」と思っても、それは夢ではなく残酷な現実でした。これからの将来を考えたときに、新しいパートナーを探すことも勧められました。しかし病とひたむきに向き合う彼の姿に、私の心はすでに強く惹かれていました。この人と別れられるわけがない。なぜなら、全てを失い苦しいときこそ支えが必要なはず。こんな状況の中、彼のポジティブさに勇気づけられ、彼への愛情がより込みあげてきました。時が経つにつれ、私たちはそれぞれ新しい役割を担うようになりました。私は彼が最優先事項になり、彼のそばに居られるよう仕事を辞めました。私は彼のそばで支えることを決め、それ以外のことはすべて保留にしたのです。

闘病中
 闘病中

 若者からお年寄りまでさまざまな人が家族と共に必死に生きようとしている姿を毎日見ていると、自分の抱えている問題は些細なことだと気付かされ、今よりもっと大変な状況になっていたかもと思えるようになりました。闘病生活を支える中で、病院で話をしたり、一緒に食事をしたり、車椅子で外に出たり、そんな毎日の小さな楽しみに感謝することも学びました。本当のことを言うと、ちょっぴり罪の意識を感じながら、夫と病院で一日中お話しすることは人生の一番大切な思い出です。ただ、介助者として、そばで支えることは単純なことではありませんでした。さまざまな犠牲や我慢が必要で、誰も介助者としてどうあるべきか、介助者自身の生活、患者へのサポートと自立を促すことを両立させる方法や同情せずに共感する方法、前向きな希望と現実のバランスの取り方を教えてくれるわけではありません。介助者を誰がサポートするのか?「医者や看護師は医療を施してくれますが、患者の心の整理を手伝えるのは介助者であることが多いです」(B. H. Lewis)この経験を通して、介助者、患者家族たちへの支援や情報交換の場も大切だと感じました。失望や苦しみを経験している最中、自分と向き合うとき、「何故、私?」と問いかけることがあるでしょう。

 一人ひとり、介護の状況は異なるので、その経験も異なります。病気の種類、進行、重症度、住む場所など違いは多岐にわたります。自分の経験を思い起こし、日本に住む外国人として介助者になって直面したことをまとめました。

①言語の壁:医師の話が分からないとき、状況が掴めないとき、自分の不甲斐なさを感じました。特に心配だったのは緊急で助けを求めなければいけないとき、適切に情報が伝えられるか不安でした。また、夫が脳血栓になって、私のことや英語を忘れてしまうのではないかと心配でした。夫の家族と(日本語で)コミュニケーションを取る語彙力が足りませんでした。

②日本の臓器移植の制度の制限の多さや厳しさと提供件数の少なさに対する失望。日本は先進国であり、慈悲やコミュニティで作り上げられている国のはずなのに、臓器移植に対する意識と慈善という理念に関しては他国より遅れている感じがしました。

③精神的なケアを受ける体制の脆弱さ。

④自責の念、罪悪感:夫が病気になったのを自分の責任だと感じました。出会わなければ病気を発症しなかったかも?夫ではなく、自分が病気だったら良かったと思いました。

⑤犠牲:イギリスに戻り、自身のキャリアを進めることや自分の家族と一緒に居ることはできませんでした。日本での生活は素敵ですが、外国人としての仕事の選択肢は限られています。いつも部外者として扱われます。

⑥普通に生活できない:先の予定が立てられませんでした。常に時計を眺めながら、残された時間はどれくらいあるか考えてしまっていました。

⑦補助人工心臓を着けて外に出るのが不安:人の健康や命を預かる責任は精神的に疲れました。

 患者自身が命に関わる大変な思いをしているときに、介助者としてのつらさを吐露することは恥ずかしいことかもしれません。ただ、その気持ちを誰かに伝えたり、支援を求めたりすることは、何ら恥ずかしいことではなく、逆に患者自身を助けるために必要なことだと強く感じています。患者、介助者、医療のプロであっても、必要なときに助けを求めることは健全なことです。孤独を感じている人がいれば、1人で戦う必要はありません。1人で戦わないでください。自分自身のケアができずにどうやって大切な人をケアできるのでしょう。

入院中の彼と
 入院中の彼と

 間もなく私たちは結婚をし、夫はドナーの方から心臓移植を受けることができました。ドナーさんとドナー家族は、私の大切な夫を救ってくれただけでなく、私たちは娘を授かることができました。そして、今は息子を出産する予定です。新しい家族を持てるようになるなんて夫が病気を発症したときには夢にも思いませんでした。我々家族みんなの命がドナーさんによって救われたと実感しています。ドナーさんとドナー家族へ心からの感謝と尊敬の念でいっぱいです。いつか子どもたちに父親の勇敢さ、移植医療と共に歩んできた道、またそこで出会った多くの素晴らしい人たち、愛した人、失った人たちのことを伝え、また、父親の体の手術痕を、つらさの象徴として怖がるのではなく、その困難を乗り越えた強さの証だと教えてあげたいです。

 誰にも病気になってほしいとは思いませんが、夫の病気を通して、多くの医療関係者たち、さまざまな病と闘っている多くのみなさんと出会ったことは、私にとっていろいろな物事に対して新しい視野を与えてくれました。私たちが失ったもの、できないことではなく、今あるもの、できることに感謝をするということを教えてくれ、また人生にとって何が一番大切なのかも教えてくれました。また、介助者、パートナーとして私が最終的に学んだことは、相手に「寄り添う」ということでした。これまで私たちを支えてくださった全てのみなさんに心から感謝をしています。

家族3人で
 家族3人で

母の手記

 あの日、息子が仕事帰りに実家に寄って、「ちょっと休ませて」とソファーに横になりました。「最近、足が浮腫んでしんどい」と言うので「足湯を用意しようか」そんな会話をしながら、そっと足に触れるとすでに浮腫んでいるレベルではなく、腫れている状態でした。「おしっこ出ているの?」不安がよぎりました。うたた寝の無呼吸時間が長いのも気になり、多忙でなかなか受診がままならない息子に「日曜でもやっている病院に変えてみたら?」と言ってみたもののそんな悠長な場合じゃないと、すぐに夜間救急診療所へ連れて行かなくてはと焦りました。

 診療所で採血や胸部撮影の間に尿検査があり、「出ない」「え?水分あまり取ってないの?」と話していると尿検査はもういいからと医師に呼ばれ、胸部写真を前に、「ここでこうしている場合ではありません。心臓が大きくなっています。総合病院を紹介しますから、すぐに行ってください」総合病院の救急外来で、医師から親だけに「心臓移植が必要な病気です。このまま緊急入院してもらいます」何が起きているのか理解できないまま、しっかりしなくてはと思いつつ、不安でいっぱいでした。息子が医師から心臓移植が必要と宣告された日、ベッドで涙する息子に何の根拠もないまま「絶対守るから!」と言いながら息子の足を摩り続けました。

 それからというもの当時婚約者だった彼女と家族との怒涛の日々が始まりました。地元の病院での治療から、他県への転院に付き添っての単身転居、彼女と交代しながらの看病、主人は週末ごとに長距離運転しての往復。子犬のいる留守宅を預かってくれた娘夫婦のサポート等々。緊急時のための24時間介助が必要といわれた補助人工心臓の装着手術を受け、社会復帰したいと地元に帰って就職し、そして心臓移植が巡ってきたあの日を迎えました。その間に多くの山あり谷ありで、何度もオロオロしながら、でも肝っ玉母さんでいようと必死にしがみついてきました。

 ドナーとなって息子に命をつないでくださった方、あなたのおかげで私たち夫婦は想像もしていなかった孫まで抱くことができました。息子家族が健やかに人生を過ごすことが、あなたへ、あなたのご家族への恩返しになることと思います。ありがとうございました。心から感謝申し上げます。

 移植医療はたどり着けば素晴らしい医療技術です。たどり着くことが困難な現状ですが、壁が少しでも低くなっていくことを心から願っています。

息子家族と
 息子家族と

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