その日から、何か希望というか光のような不思議な感情が生まれ始めました。

卒業

 12月。あと1週間もすれば我が家にもサンタクロースなる人が現れてくれるはずでした……。

 その日は、雪は降らないがとても寒い月曜日。いつものように朝が来て、いつものように3人の子どもたちはそれぞれの学校に行き、主人に続き私も仕事に行こうと重たい腰を上げようとしていたときです。

 突然、電話が鳴りました。

 電話に出るとそれは一番上の娘の学校からで、「〇〇さんですか。□□高校の◇◇ですが、娘さんが事故に遭われまして、今、警察から連絡があると思いますので……」とのことでした。
 電話を切るとすぐ、消防より電話が入り、状況を知らされました。受け入れ先が決まり次第また連絡する、とのことで一度電話を切りました。

 娘が事故に……、まさかうちの娘が。

 主人の勤め先の近くにドクターヘリが降りるグラウンドがあり、「とりあえず行ってみる」と主人は車で飛び出しました。私は、たいしたことはないだろうと自分に言い聞かせ、連絡が入る間に入院になるだろうと旅行バッグに着替えやタオル、洗面器に娘の保険証などを準備しました。
 準備が終わる頃、再び電話が鳴りました。息を吹き返したのでとりあえずヘリで病院へ搬送します、と。
 事故現場からそのグラウンドに着くまでに一度心停止したようですが、懸命な処置により再度鼓動を始めてくれたそうでした。ドクターヘリで来られた医師が娘の状況はかなり厳しいということではありましたが、ヘリを飛ばそう!と決断してくださり、その場にいた主人も一緒にと、ヘリに乗せていただき、病院へと飛び立ちました。

 私も入院バッグを抱え、何とか初めて行く病院にたどり着きました。
 「大丈夫よ!娘なら大丈夫よ!」
 だがそんな私の声掛けにも主人は涙を抑えることができずにいました。

 医師からの話では、「MRIで検査しましたが、頭部への衝撃が強く、手の施しようがありません。今日の夕方まで持つかどうか……」とのことでした。
 娘には、下に2人妹弟がいて、すぐに学校へ迎えに走りました。病院へ戻る途中、ICUに移ったと連絡があり、駐車場から子どもたちと病室へ無心で向かいました。

 ICUの何床かある一画に娘が寝ていました。「お母さん、心配させてごめんね。大丈夫だよ」とほほ笑む娘をどこかで望んでいましたが、現実はそんなに甘くはないどころか地獄でした。人工呼吸器に輸血と点滴、たくさんの配線。無造作に拭かれた顔の赤黒い汚れ……。

 担当医からは奇跡の奇跡が起こる可能性は「ゼロです」と言われました。
 まさに、テレビドラマのワンシーンのよう。まさか我が子が……。

 夕方、脳外科担当医と今後の話をしました。「今は薬で血圧を安定させているが、これを止めてしまえば、徐々に他の臓器も停止するだろう」と。つまりは延命治療をするかということでした。
 主人は、娘が痛く、つらい思いをするくらいなら、早く大好きな家に帰してやりたいと、想いを伝えました。そして、ふと『臓器提供』の話を出したのです。そういえば、何年か前に娘とそんな話をしていたことを思い出しました。しかしそのとき娘は、興味が無かったのか話をまともに聞く気も無く、するともしないとも答えていなかったようです。
 担当医はまさかそんな話をこちらからするとは思っていなかったようで、少し動揺されていましたが、お願いして話を聞いてみることに。

 翌日、日本臓器移植ネットワークの方が来られ、『臓器提供』の話を、本人の提供意思の有無、家族全員の同意が必要であることなどいろいろな話を伺い、どうするかを家族全員で話をしました。
  娘は、両家にとって初孫。そして、主人の両親と同居していることから義母は私よりも普段からの生活で娘と接する時間が長く、家族の中でも一番娘のことが分かるそんな間柄でした。なので、義母が孫の体にこれ以上傷を付けたくないと、一番に反対。
 その気持ちはよく分かりましたが、それをも上回る想いとして私たち夫婦の願いは、今まで2回も止まりそして動き始めてくれた心臓をこのまま止めたくない、このまま全てを灰にするのではなく、この世のどこかで娘が動いていてほしい。幼少期の心臓手術で一度、心臓を止め手術をし、元気に鼓動し始めた、生きる望みを吹き込まれたこの心臓を止めるわけにはいかない。
 その想いを家族に伝えると、天国でも目が見えるように眼球だけは手を付けないでという義母の想いを受け、『臓器提供』に踏み切ることとなりました。ただ条件として、摘出手術までに娘自身が鼓動を止めたときは、『臓器提供』を望んでいなかったものとして中止するということで進めました。

 その日から、私の中に娘を失う悲しみとは別に、何か希望というか光のような不思議な感情が生まれ始めました。

 数日後、娘が臓器提供を受け入れてくれ、多数の受け入れ先の医師と共に県警ヘリや新幹線などの交通手段を使い、4人の移植者の元へ娘は形を変えて旅立ち、新たな人生を歩み始めてくれました。

 だが、やはり娘自身が決めた進路を全うできなかった無念さや、せっかくできた友達と一緒の時間を過ごさせたいという想いを拭い去れず、校長に承諾いただき、娘に似せた人形を登校させ、部活や文化祭、夏の野球応援や修学旅行も同級生と楽しい時間を過ごすことができました。
 そして、2年が過ぎ、3月。学校から連絡があり、皆との卒業式は難しいのでと、その後に校長室にて「小さな卒業式」を企画していただくことになりました。
 娘が星になってからもお付き合いしていた娘の親友とお母さん、娘と関わっていただいた多数の先生方も同席で、この式を企画していただいた前校長より、娘の代わりに妹弟が卒業証書を授与させていただき、小さくもとても感動的な卒業式となりました。

 娘がドナーとなったことで、新しい出会いや娘からのつながりを今でも感じさせてもらえることに家族皆で感謝しています。

 こんなに誇らしい娘を持つ親でいられることに感謝!

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