誰かの命をつなぎ、この空の下で、生き続けている。

尊い一日

 もし、愛する家族を突然失ったら?......あなたは考えたことがありますか。私はありませんでした。 そして、その日は突然にやってきました。
 「帰る支度をして」今も耳に残る先生の言葉。急いで家に帰った私に祖母は言いました。「お父さん、自発呼吸ができなくて...、瞳孔が開いてきちゃっているって」
 前の日、自宅で倒れた父は、病院に救急搬送され手術を受けていました。手術は成功したはず、大丈夫のはず、私は勝手にそう思いこんでいました。
 病院のベッドに横たわる父は、人工呼吸器のおかげで生きている、生かされている状態でした。「お父さんの命は、もってあと一週間。今、呼吸器を外したら、死んでしまいます。今の状態は、脳死状態です」
 病院の先生の言葉は、さらに続きました。「脳死の方は、臓器提供をすることが可能です。命が自然に尽きるまでこのままにしておくか、心臓が動いているうちに臓器提供をするかは、患者さんの意思で決まります。患者さんの意思が分からない場合は、ご家族のご意見に従います。どうされるか話し合って決めてください」
 父は臓器提供の意思表示をしていませんでした。
 私の父はボランティアによく携わってきた人でした。東日本大震災の時にも現地まで出かけていき、困っている人たちの手助けをしていました。今、父に、どうしたい?と聞いたら、きっと、臓器を必要としている人がいるならあげてほしいと言うんじゃないか......それが私たち家族が話し合って出した結論でした。
 その日から、看護師さんや臓器移植コーディネーターさんたちとの話し合いが始められました。父の死が受け入れられない私は、その間、ずっと泣いていました。コーディネーターさんたちは、イヤだったらイヤって言っていいんだよ、と声をかけてくれました。私はただ泣くばかりでした。
 父が倒れてから四日後の朝、脳死の判定が下され、父は、法律上「死亡」となりました。
 その翌朝、全国から十五人以上のお医者さまが集まって、臓器提供のための手術が行われました。死亡した父の体の中から、心臓、肺、肝臓など計六個の臓器が取り出されました。
 そして、全国各地の病院に運ばれていきました。
 ...私の日常はまた何事もなかったかのように始まりました。ぽっかり穴が開いたような日々に、一人涙を流すことも度々ありました。
 ある日、いつものように仏壇の前で手を合わせ泣いていた私の隣に、弟がかけよってきてちょこんと座りました。
 「お父さんがいなくなって寂しくないの?」
 弟は答えました。
 「寂しくないよ。だってお父さんの心臓はしっかり動いているでしょう」
 ......私ははっとしました。そうだ、父はまだ生きている。誰かの命をつなぎ、この空の下で、生き続けている。立ち止まっているのは私だけだ。弟の言葉は、私の心の中にあった重たい石のようなものを吹き飛ばしてくれました。
 もし、愛する家族を突然失ったら?......それは、受け入れがたい事実です。しかし、私も、そしてあなたも、明日の命を保証されている人は誰もいません。だからこそ、今日というこの一日を大切に生きよう。できることを精一杯やっていこう。そして、伝えたい。
 みんなに...「ありがとう」を。
 「元気に明日を迎えられることは有り難いこと。その与えられた尊い一日をどうやって生きるのか、決めるのは自分自身」
 父のこの最後の教えを胸に、私は一日一日を、自分らしく笑顔で生きていきたい。

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