がんばれ、一緒にがんばっていこう!

レシピエントより

感謝してもしきれないこのドナーさんへの思いを、言葉や形にすることがなかなかできず、誠に申し訳ありません。
来月の6月で、移植して3年の時を迎えようとしています。私がドナーさんの尊い命のバトンを受け取り、生まれ変わらせていただいた時から現在まで、語り尽くせないほどの感謝と喜びと、生きている有り難みを感じて参りました。

中学1年生の時、100万人に1人というとても珍しい病気になりました。それは、原因がわからず、治療法がない、治すことが難しい病気でした。私は小学生の時には、バレー部のキャプテンを務め、毎日100段もある階段を走り登って学校に通うような、普通の元気な女の子でした。そんな私が初めて父の涙を見たのは、13歳の夏、この病気であることを伝えてもらった時でした。その時、この病気が簡単なものではないことを、幼いながらに感じとりました。
それから、みんなが普通にできることが、だんだんとできなくなっていきました。大好きだったバレー部をやめ、体育も、遠足も、修学旅行も参加できず、運動会はみんなを応援する係になりました。
高校生の時、24時間点滴で薬を流し続ける治療が始まりました。それは体に点滴の管を埋め込み、全身の血管を拡張し続けるもので、皮膚が熱を持って真っ赤になり、精神的につらい経験もありました。
大学の授業中に先生から、「そこの真っ赤な顔の学生、朝から酒なんて飲んでくるな。」とマイクで怒鳴られ、部屋中の学生が振り向き、笑いました。高校の先生から、「なんでお前は体育にも出てないくせに運動部より日焼けしているんだ。」と言われたり、知人から、「酸素と点滴で管がいっぱいでモルモットみたい。」と言われたこともありました。「そうですねえ。」と笑っていたけど、本当は泣きたいのをいつも必死でこらえていました。10~20代だった私に、この治療からくる外見的な副作用は、容易に受け入れるものではありませんでした。でも生きていくために必要なんだと頑張りました。
それでもだんだんとできないことが多くなり、お風呂も1人では入れず、トイレへも途中で何度も休憩しなければ、行けなくなりました。家で家族と過ごせる時間より、入院している時間のほうが長くなっていきました。「こんなに頑張ってきたのにな…どうしても報われないことってあるんだな。」と知り、死を意識し始めていました。

その数か月後、ドナーさんの命のバトンを受け取りました。
移植は私を、1日で生まれ変わらせてくれました。10年間外せなかった酸素吸入と点滴の管が全て取り去られ、肌も真っ白になったのを見た時の感動は一生忘れられません。
今は一人暮らしをしながら、お仕事ができるまでになりました。
一緒にお風呂に入って、自分が風邪をひいてでも、いつも私の髪を先に洗って乾かしてくれていた母。一番の願いは私の病気が治ること、それが叶うなら他には何もいらないと、いつも自分のことより私の幸せを願い続けてくれた父。

先日帰省した時にはその両親を私が引っ張って、夕方の涼しい田舎道を親子3人で散歩しました。早く!!と走って坂を上ると、とても嬉しそうに後ろから見ていました。
移植後の体調管理は、以前よりもっと気をつけて行っています。この肺は、ドナーさんの尊い命をお預りしているという思いが強くあります。私の一番の自慢は、毎月の定期受診で主治医の先生に「今月も安定していますね」と言っていただけることです。
これからも、私の中の応援団長のドナーさんから聞こえてきそうな、「がんばれ、一緒にがんばっていこう!」の声と、いただいた大切な肺とともに、「この人でよかった。」と思っていただけるような生き方をしていきたいと思います。
心から、本当にありがとうございました。

ご子息様から命の灯火を頂いた娘の父母、家族一同より

謹啓 新緑の候、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
かけがえのないご子息様から、大切な肺を頂戴しました娘の父でございます。計り知れない不思議なご縁を頂いて、この手紙をしたためさせていただきます。
3年前、私の娘は明日をも知れぬ、大変危険な状態にありました。日本有数の優れた医療スタッフのお力で何とか命を繋いできましたが、病の現実は厳しく、移植以外に生きる術はないところまで来ていました。それが、この度ご子息様の貴重な肺を頂いたお陰で、今では1人で生活できるほど元気になり、「人並みに普通のことがしてみたい。」と願い続けてきた人生を叶えさせていただくことができたのです。何と有り難いことか。本人はもとより家族一同、心から感謝申し上げます。

娘は、幼いころから明るく素直で、常に笑顔の絶えない人気者でした。この子がいるだけで、どれほど周りが和み、元気づけられたことか。私たちにとってこの子は太陽のような子でした。それが、中学に入った最初の検診で体の異常が見つかり、私たちの聞いたこともないような厳しい病名を告げられたのでした。
私たちの人生が静かに、しかし確実に変わり始めました。親といえ代わってやることもできず、それでも、娘はつらい時ほど笑顔を見せ、悲しい時ほど明るく振る舞うような、そんな娘でありました。ところが、年ごとに病床で過ごす日が増え、医師からの言葉にも厳しさが増しました。半生半死のようなベッド生活を余儀なくされ、それでも「生きてくれるだけでいい。」と願う私たち。しかしそんな願いすら、年ごと、日ごとに削り取られていく現実。この子を失う日が来るのかと涙せずにはおれませんでした。内科治療の限界を告げられた日の絶望感を、今でも忘れることができません。
それが、病院から移植手術の連絡を受けた日。私たちの人生が、涙から笑顔へ、絶望から希望へ大きく変わったのです。こんな夢のような日が来るとは、とても思いませんでした。

移植手術が終わり、執刀してくださったドクターがモニターを見せながら、「ここからが頂いた肺です。しっかりした立派な肺ですよ。」とおっしゃった時には、涙が止まりませんでした。弱り切っていた娘の心臓が、肺が、血流がいきいきと動いている。まさにご子息様から、命のたすきをお受け取りした瞬間でした。24時間手放せなかった静注点滴の管が外れ、手の平いっぱいの薬から解放され、心沈む副作用のつらさも和らぎ、娘は今、生きる代償として手放した青春の喜びを取り戻そうと、新たな人生を元気に歩んでいます。それもこれも全て、ご子息様のかけがえのない肺と、ドナーとして名乗りをあげてくださった尊いご心情のお陰です。何とお礼申し上げてよいのか、感謝の気持ちでいっぱいです。  
娘は移植手術間もない頃、幻覚症状とは別に、激しい痛みの中で「この部屋にいつも誰か男の人がいるよ。お母さんには見えないの?」と口にしていました。容体が落ち着いた頃にそのお姿は見えなくなったので、「もしかしたら肺を提供してくださった方が、私をずっと見守ってくださっていたのかもしれない。」と申していました。その方こそ、ご子息様であられたのでしょう。

私たち家族は、ご子息様の命日には、家族みんなで仏様にお参りしております。
「娘をお助けくださり、ありがとうございます。」
「娘に笑顔を取り戻してくださり、ありがとうございます。」
「私たちに命の尊さと、生きる喜びを教えてくださり、ありがとうございます。」
お察しいたしますに、ご子息様は人一倍賢く、人思いで、お体も健やかであられたようですね。そんなご子息様を失くされたお母様の悲しみは、察するに余りあるものがございます。でも、ご子息様は娘の中に確実に生き続けてくださっていますよ。
娘は「普通の人と同じように仕事ができる。」と感謝し、「今度は自分がお世話になった恩返しがしたい。」「ありがとうの気持ちを忘れない。」と笑顔で頑張っています。祈っても願っても叶うことのなかった生きる喜び、家族の幸せを、ご子息様から恵んでいただくことができました。名も知らぬお方ではありますが、感謝しても感謝しきれず、ただただ両手を合わせ、拝ませていただくばかりです。
お母様がどれほど深くご子息様を愛しんでおられたことかと思いを馳せながら、頂いたお命をけっして無駄には致しません。どうぞお母様もご尊身をおいといくださいますよう 心から念じ申し上げます。
ありがとうございました。
本当に、ありがとうございました。

移植者とそのご家族へ送られた、ドナーファミリーからの手紙はthink transplant Vol.37でお読みいただけます。

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