20年以上の間できなかったことにチャレンジして明るく生きています。

進行する病

 気管支拡張症と言われてから何年か後、出産を経験し、下の子が小学校に入った頃から急激に息が苦しくなりました。頭がガンガンしたり、ちょっと動くだけでも苦しくて…。でも、その時はまさか血液中の酸素が薄くなっているためとは思ってもいませんでした。小さい子供がいるので、病院で診断を受けるのがとても恐かったのですが、実家の母に付き添ってもらい、病院へ行きました。その場で「右心不全」と診断され、そのまま入院となりました。夏休みだったので、子供達は母に預けていたのですが、主人が土日の休みに私と子供達の間を往復してビデオで元気な様子を見せてくれたり、手紙のやりとりもしてくれたおかげで励みになり、どうにか辛い入院生活を頑張ることができました。退院後は、24時間鼻カニューラをして在宅酸素療法に入りました。初めの頃は1分間に1リットルを吸っていましたが、だんだんと1.5リットル、2リットルと増えていき、とても不安な毎日でしたが、家族の助けを借りて家事も最低限頑張っていました。熱を出して肺炎をおこし、入院することも何度かあり、これ以上悪くならない様祈るような気持で毎日送っていました。しかし、息苦しさは日に日にひどくなる一方で、ある日、いつもの病院で診察を受けた時、あまりにも酸素の数値が低いため、すぐに救急車で別の病院に搬送されました。その後3日ほどして、先生に「もう移植しかありません」とはっきりと告げられました。

葛藤

 家族に病院に来てもらい詳しい説明を受けましたが、何日間か自分の事と受け止められず、ふわふわした気持ちで病室にいました。2回目の説明では、移植の方法には生体移植と脳死移植の2通りがあるものの、家族の中に血液型が合う者がいないため、家族からの生体移植という選択肢は無いことを聞き、ホッとして胸をなでおろしました。しかし、その後の詳しい検査で、私はDNAが2つ持っていることがわかりました。B型97%とAB型3%のAB型キメラ、というものでした。2卵性双生児の場合、よく起こるそうです。B型からもAB型からも移植可能なため、先生に「ご家族の方から生体移植が可能ですよ」と言われてしまい、嬉しさよりショックでした…。主人と子供達も「良かったね、これで早く手術ができるよ」と言ってくれたのですが、私は泣きながら「絶対にイヤだ、みんなの体を傷つけて、健康な体を切り刻んでまで元気になるなんて…」と小さな声で訴えていました。手術の成功する確率も絶対ではないし、もしかして皆の体の健康が損なわれるだけの結果になってしまうのではないかと恐かったのです。でも、脳死移植にしても、家族は守りたいからといって他の人の死に頼ってよいのだろうか?と、簡単に決断できずにいました。そうしている間にも苦しさは増していき、トイレに行くだけでも動くのが苦しく、朝を迎える毎にほっとしていました。ある日の夜中、息苦しさから酸素のスイッチを替えたくて手を伸ばしたのですが届かず、必死に大きく息をしたのですが苦しさは治まらず、隣の部屋で寝ている娘に「助けて」と小さく叫びました。しかし、小さな子供が横で寝ているので起こしてはかわいそうだと思い、それ以上声を出すことをためらいました。その後、「生きたい、苦しいのはイヤだ」という強い思いが沸いてきて、移植手術を受けるため、日本臓器移植ネットワークに移植希望登録をする決心をしました。53歳の時でした。

元気になれることを信じて

 日本臓器移植ネットワークへは、AB型キメラと言う事で、B型ではなく待機人数の少ないAB型で移植希望登録をしました。たった3%しか合っていなくて移植された肺は大丈夫なのか?と、とても不安でしたが、主人とふたりで話し合って決めたことでした。「きっと大丈夫だよ、かけてみよう。信じてみよう。」と…。そして、登録完了後10日後に、「移植できます。どうしますか?15分以内に返事を下さい。」と電話があり、急いで主人に連絡をしました。その日は運良く近くにいたため、すぐに帰って来てくれて、あわただしく仕度をして病院に向いました。こわいとか、不安な気持ちは不思議なくらいなくて、車の中では病院に何時に着けるか?ということを考えたり、母に電話をしたりしていました。病室に入ると外にきれいな景色が見えて嬉しかったことを憶えています。職場からかけつけてくれた息子と主人と3人で穏やかな夜でした。

一進一退のリハビリ生活

 20時間以上かかった手術も無事終了し、その後ICUに移りました。ICU生活は一ヶ月以上にもなり、酸素マスクをしているので話すことが出来ず、ベッドの上だけの毎日でした。不思議な事に耳も聞こえづらくなってしまい、意思の疎通ができず、私だけでなく、もまわりの人達も大変だったと思います。呼吸のリハビリも本当に辛くて苦しく、泣きながら必死でした。手術をすればすぐ自分で呼吸もできると思っていたので、移植手術の大変さをこのとき身にしみて実感しました。厳しいリハビリも何日かたって実を結び、酸素マスクも外すことができるようになり、「さあ、もっと頑張って一般病棟へ行くぞ」と思ったのもつかの間、再びうまく呼吸できなくなり、気管切開することになってしまいました。再び話すことが出来ない日々が続き、水さえも飲むことができず、辛かったですが、その後どうにか流動食が口から食べられるまでになり、一般病棟に移ることができました。同室の人達の元気に動いている姿を見て、私も早くあんな風に動きたいと強く思うようになり、リハビリを頑張ることができました。同室の人達や、先生、看護士さん、移植コーディネーターさん、リハビリの先生、家族にも励まされて、必死に頑張り、退院の日を迎えた時は嬉しくて嬉しくて、移植を受ける前、病院に来た時は酸素ボンベを引いて車椅子に乗っていたのに、こうしてボンベも持たず自分で歩いて帰れる事が信じられないぐらい、嬉しかったです。新鮮な外の空気を思いっきり胸に吸い込んで車に乗り、家へ帰ることができるんだとワクワクしました。

みんなに支えられて

 退院後、2ヶ月もたたないうちアスペルギルス症と診断され、2週間位入院をしました。土の中や、大気中にいる菌が体に入って感染症を起こしたことが原因でした。この時、免疫抑制剤の副作用である、「感染にかかりやすくなる」という事を改めて感じ、今は術後の管理の大切さをしっかり心に留めながら生活をしています。
 入院中も手術後もそばで見守ってくれた主人は私よりも大変だったと思います。毎日4回の面会時間には必ず来てくれて、何回か夜の面会の後に自宅に戻り娘たちを連れて来てくれて、次の日の朝もいつものように面会に来てくれました。本当にまわりの人達みんなに助けられて今こうして元気に過ごすことができています。孫たちとも一緒に走ったり、キャッチボールをしたり、ボーリングできるようになりました。階段の上り下りも、楽にできます。大好きな京都への旅行も、今年は孫たちも一緒に行くことができました。清水寺のあの長い階段もスタスタと歩くことができたのです!そんな私の姿を見て、家族のみんなが心から喜んでくれました。これからは、20年以上の間できなかった事に少しずつチャレンジして、前向きに明るく生きて行こうと思っています。

 

ドナー様、ドナーのご家族の皆様、本当に、ありがとうございました。 

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