臓器提供は他人事ではないということ、臓器提供についてはなすことの大切さを伝えたい

数字の意味

この原稿を書いている2012年9月現在、日本臓器移植ネットワークの資料によると、脳死下での臓器提供は約190例。これを「まだ少ない」と見るか「意外と多い」と見るかは人それぞれですが、確かに言えることは、190人の「ドナー」がいて、その数倍の「ドナー家族」がいる、ということです。190というのは決して無機質な数字ではなく、その後ろにドナーとなった人々の生きてきた道があり、最期を看取った家族の悲しみがあります。

特別な存在ではない「ドナー家族」

 父の脳死下での臓器提供に同意した私が、ドナー家族として市民講座や医療関係者向け勉強会等でお話をさせていただくようになり数年が経ちます。実は、自分自身がその立場になるまで、ドナー家族に対するイメージは、「何か崇高な意思を持っている人」「道徳の教科書に載るような人」と、おおよそ自分とはかけ離れた類の人々である、というものでした。決して悪い印象は抱いていませんでしたが、かといって身近な存在というわけでもなく、どこか遠い世界の誰か、といった程度の認識でした。

それがいざ、自分がドナー家族とカテゴライズされるようになって初めて、案外そうでもないらしい、ということに気づいたのです。私は決して特別な存在ではなくごく普通の人間であり、きっと多くの家族が私と同様だろう、ということに思い至った時、目から鱗が落ちたような感覚を覚えたと同時に、この極めて単純なことを誰かに伝えたい、と思うようになりました。講演を依頼されたのはそんなときです。

様々な家族のかたち

何をお話しするべきか、と考えた時に思い出したのは、以前、ドナー家族の集まりで出会った方々のことでした。私は幸いなことに、父の臓器提供に関して僅かな葛藤も抱くことなく暮らしています。それは書面での意思表示に加え、常日頃から一家団欒の話題として移植医療の話が出ていたこと、生きること、死ぬことに対する父の考えを家族全員で共有していたこと、何より、その価値観を尊重することを父が望んでいると確信できたことが大きかったと思います。しかし、ドナー家族の中には、意思表示カードに提供と書いてあったから同意したが、本当にそれでよかったのか今も悩んでいる、という方や、周囲から心ない言葉を浴びせられ傷ついた、という方もいらっしゃいました。私の中のドナー家族のイメージに「悩み、葛藤を抱いている人」というものが加わりましたが、それもまた私自身とは全く重ならないものでした。 また私は「ギフト・オブ・ライフ」という言葉も「いのちのリレー」という言葉も使いません。後述する私自身の価値観に沿わない、というただそれだけの理由ですが、これについても様々な捉え方をしている家族がいる、ということに気づきました。 かくして、「誰にとっても決して他人事ではないということ」、そして「様々なドナー家族が存在し、ステレオタイプ的には語れないこと」を軸にお話しをするようになったのです。

「こころ」の方向

 どこでお話をするときも、まず、私が話すことは私自身の知見に基づく言葉であり、ドナー家族全体を代表しているわけでも、それどころか、たった数人の私の家族を代表しているわけですらない、ということを前置きしています。特に後者について、確かに私たち家族は全員一致で臓器提供に同意しましたが、そこに至る思考の過程、また臓器提供をどのように捉えているかはそれぞれ異なっています。例えば私は臓器に人格を認めないという思想ですので、クーラーボックスで運ばれていったのは父本人ではない、と今でも思っています。その延長線上で、よく報道で目にするような「体の一部でもどこかで生きていてほしい」と思うこともありません。レシピエントに移植された臓器は父本人ではなく、確かに父は亡くなったのだと思っています。しかし家族の中には「今もどこかで頑張っているのだ」と思っている者もいますし、それを否定しようとは思いません。
私たちはひとりひとり、異なった「こころ」を持っています。大切なのはそれが同じ方向を向いているかどうか、ということだけです。

ドナーの福祉

時折、「ドナーの福祉」という言葉を使います。幸せ、豊かさ、良く生きること、を表す福祉という言葉を、ドナーという「死」と密接に関係している言葉と組み合わせることに違和感を覚える方もいるかもしれません。けれども私たち家族が、目の前に横たわる家族を見つめる時に考えることといえば、臓器提供をするしないに関わらず「何が本人にとって一番いいことか」に尽きるのではないでしょうか。「誰かの命が助かるなら」というのは、ことさらメディアに取り上げられがちな言葉ではありますが、実際のところ、家族にとって提供の意思決定を左右する大きな要因とはなりえないように感じます。
本人がどうしたいと思っているのか、あるいは家族に何を望んでいるのか。ドナーが意思表示をしていてもしていなくても、成人であっても子どもであっても、家族が何を決定打とするかは、結局そんなシンプルなことに過ぎないと思います。

Share Your Decision

 いつも必ずお話しするのは、「Share Your Decision あなたの意思を共有してください、分かち合ってください、話し合ってください」ということです。よく、「自分は臓器提供の意思があり、カードにもその旨を書いてあるが、家族の行動を縛りたくないので特に話していないし、いざというとき家族が決めてくれればいい」と言う方がいます。一見家族想いの言葉にも聞こえますが、実は「いざというとき」家族に必要以上の負担を強いる言葉です。「臓器提供への理解を深める」というのは、何も臓器提供に賛成する、ということではありません。臓器提供についてしっかりと考え、大切な人たちと話し合い、その結果自分は臓器提供をしない、同意しない、納得ができない、という考えに至ったならば、それは立派な「理解」と言えるのではないでしょうか。
悩み、苦しんでいるドナー家族を救うことができるのは、また、これからドナー家族となる人々が悩み、苦しむことのないようにするには、「Share」をしていく他には道はないと信じて、私はまた皆さんの前でお話をさせていただくのです。

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