肺移植を希望しながらも若くして亡くなった夫の遺志を伝え続けます

白血病を乗り越えて

池田真一(香川県出身)31歳。彼の人生は波乱にみちていました…。 病との闘いの始まりは、高校1年生の頃に遡ります。当時本人には実の病名は告げられませんでしたが、抗がん剤を使った、辛い白血病治療を受けました。やっと寛解までこぎつけ、その後念願だった東京の大学に進学します。治療からちょうど5年を過ぎた頃、体の異変に気付きました。再発でした。初めて知った病名に頭の中には「死」という文字が離れなかったといいます。そんな時、奇跡的に骨髄提供を受けることができ、彼は見事に生還しました。23歳の時でした。
 そして患者として病と向き合ってきた彼は、一つの夢を抱くようになりました。
 「医療に携わる人になりたい!」
 そんな思いから、通っていた大学を中退し、理学療法士(リハビリの専門職)を目指す専門学校に入学します。大勢の仲間に囲まれ、何もかもが新鮮で、彼は全力で青春を謳歌しました。初めての恋人もできました。幸せいっぱいの時間を…過ごすことができました。
 専門学校を卒業して理学療法士、作業療法士として就職した私たちは、やがて結婚を考えるようになりました。彼は白血病治療の副作用から子どもを授かることができません。周囲の強い反対を受けながらも、必死で二人の思いを伝えました。最後には家族も仲間も温かく見守ってくれ、私たちの結婚生活はスタートしました。そしてかけがえのない思い出がたくさんできました。

生きたい!!

結婚式直前から、彼は乾いた咳がでることに気付いていました。しばらくして精密検査のために入院し、そこであらたな病、「肺線維症」に罹患していると、医師から告げられます。「もしかしたら、肺移植も検討しなくてはいけなくなるかもしれない」
そのときはまだ、病がどこか他人事のようにすら思える余裕がありました。でもそんな余裕も長くは続きませんでした。彼の病は徐々に彼の体を蝕んでいきました。歩くと息が切れ、重いものは持てなくなりました。何をしてもすぐに疲れ、入浴などは、もう命がけの作業でした。大好きだった旅行も、ドライブも行けなくなりました。その後、酸素吸入をしなくてはならない状態になりましたが、むしろ時間に余裕ができたことで、彼は自分の半生をケータイ電話を使って少しずつ綴り始めました。
その年の夏、更なる悲劇が彼を襲います。間質性肺炎の急性増悪です。ステロイドパルス療法を行いましたが、治療は思うように進みませんでした。「絶望」…この二文字が頭から離れませんでした。
 少し落ち着いた頃、残された唯一の治療として脳死肺移植の待機患者登録を済ませることができました。臓器提供が少ない日本では、いつ来るとも分からない順番、日々進行する病、途方に暮れる日々でした。でも彼はあきらめませんでした。自分のケータイ闘病記も2ヶ月かけて見事に書き上げました。自分の思いを、希望を作品に託したのです。作品を読んで下さった、大勢の仲間、読者の方々により、大きな大きな支援の輪ができました。「頑張れ真ちゃんの会」その名の元に…。
 彼は毎日のように病と闘う素直な気持ちをホームページやブログに綴りました。それを読んだ全国の患者さんは、「あなたの姿勢に勇気付けられました」「共にがんばりましょう」「生き抜いてください」と励ましのメッセージを多数寄せて下さいました。それを読んで、彼も気持ちを奮い立たせ、病と闘う気力を充実させました。先のことを考えると途方もありません。移植はいつできるかわからないし、移植自体、非常に大きなリスクを伴うものです。でもあきらめませんでした、あきらめたらそこで終わりだからです。

ありがとう真ちゃん

闘病生活の中、ケータイ闘病記の出版を夢に描いていた私たちに朗報が届きました。この本をぜひ出版したい、という出版社があらわれたのです。「この本は大勢の方に勇気を与える本になる」と。決して甘くはない様々なハードルを乗り越え、また多くの支援の力により、私たちのちょうど三回目の結婚記念日に、『生きたい!!僕の履歴書』は誕生しました。この本は二人にとって子供のような存在でした。彼は何よりこの本の誕生を心から喜びました。「病に負けている場合ではない」常々自分にそういい聞かせながら。
彼が訴えたかったこと、それは「普通に生きることの喜び」です。ひとは健康や当たり前に存在しているものに対して、そのありがたさや感謝の心を忘れてしまいがちです。「普通に歩くこと」も「普通に息をすること」も彼にとっては普通ではなく、憧れてやまない姿でした。そして、周りの人に笑顔で感謝の気持ちを伝えること、これも彼が最期まで望んでいることでした。一体どれだけの人がこんなたわいもない普通の幸せを、幸せと感じているのでしょうか。

移植で救える命のために遺志をつなぐ

 2008年5月、彼は治療の甲斐なく、移植を待ちながら、とうとうこの世を去りました。あまりにも若すぎる命、肺移植は永遠に叶いませんでした。しかし、彼の遺した言葉とメッセージは今なお多くの方の手によって語り継がれています。
「普通に生きる喜び」
「命の大切さ」
「笑顔でありがとうを伝えること」
これらのメッセージは私の心にも深く刻まれています。
そして、彼の思いはもう一つありました。
「関心だけでいい、移植について考える機会をもってもらいたい」と。
 日本国内の移植医療は臓器移植法施行後10年以上経過した現在でも遅々として進まない傾向にあります。圧倒的なドナー不足です。確かな医療技術や立派な施設があっても、世界のほかの国と比べて、臓器の提供がとても少ないのです。日本では、脳死での臓器提供には意思表示カードなどの書面が必要とされていて、厳しいルールにも縛られていますが、意思を表示している人が少ないのは、自分の周りにそのような病気の人がいないからでしょうか、それとも当事者ではないから関係ないと思っているのでしょうか。もちろん、臓器を提供することもしないことも、そして主人のように移植を希望することも、あるいはしないことも個人の自由です。でも移植で救える命があることはまぎれもない事実です。自分の大切な人が移植を受けなければ亡くなってしまうとしたら…そんなところから意識や行動の変容は起こると私は思います。
 主人の思いを胸に秘め、今から私に何ができるのか、まだはっきりとは分かりません。しかし、私には主人の遺してくれた大勢の仲間がいます。その仲間たちと一緒に、主人の思いを繋げていく活動ができたらと考えています。主人の応援歌「たったひとつの真実」も私たちの歩みを後押ししてくれています。本と歌を通して、移植で救える命のために、普通に生きることの喜びを一人でも多くの方に感じていただけるように、普及活動、ライブ活動などを行っていきたいと思います。そして主人が直面した移植医療の問題に、何かの形で貢献していきたい、今そんな思いが私を突き動かしてくれています。  池田由佳

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