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キリングセンス萩原正人の ベンツで行こう!!
 俺はアメリカに渡り、肝臓移植の手術を受けた。

 日本では助かる見込みのない病に倒れ、奇跡的にも移植のチャンスを得て、手術を成功させたのだ。アメリカの肝臓移植患者は、この奇跡を大いなる感謝とユーモアを込めてこう呼んでいる。「ベンツマーク」ドイツの最高級外車メルセデスベンツ、そのエンブレムに似た傷跡を誇りにしてだ。これは安っぽい傷じゃないんだ。死神と闘った傷なんだ。もちろん、ベンツの1台や2台は簡単に買える、高額な移植費用への皮肉もあるだろう。ちなみに祖父が、この傷を見て「三ツ矢サイダー」と言ったのには笑った。鏡に写るこの傷を見て、オレは思う。「ベンツマーク」と誇りを持って呼びたいし、そして「人」という字にも見え、感謝の気持ちを続けなくてはいけないと。

 ジャンボ鶴田さんが亡くなられてから、一年の月日が流れた。彼はb型肝炎の肝硬変から、最後の望みを賭け、フィリピンで移植医療に挑戦した。しかし運命とは残酷で、肝臓移植手術中に、ショック症状を起こし大量出血。惜しくも帰らぬ人となってしまった。

 その頃オレは、アメリカのダラスにあるベイラーメディカルセンターの病室にいた。鶴田さんの亡くなられる十日前に、肝臓と腎臓の同時移植を受けたのだ。オレもb型肝炎による肝硬変だった。腎臓は移植待機中に悪くし、腎不全に陥った。

 その訃報を聞いたのは、手術が無事成功したベッドの中であった。

 オレの職業はお笑い芸人。32才の春、肝硬変の末期から、静脈瘤破裂による大量吐血。そのまま危篤に陥った。なんとか一命は取り留めたものの、医師からの宣告は「余命半年」とのことだった。

 一度は死を覚悟した。それが、多くの方々の協力により、肝臓移植患者としてアメリカの病院に受け入れてもらえた。

 まだまだ身近ではない、脳死移植。一人の体験者として語らせてもらうなら。移植とは待つことである。

 ジャンボ鶴田さんの移植待機中のエピソードがある。オーストラリアで移植を待つ患者さんに、ポケベルをプレゼントしたいという。

 鶴田さんは最初、移植の地をオーストラリアに求めた。そこには多くの日本人がおり、残された命を削りながら、移植のチャンスを待っていた。ジャンボ鶴田さんは、その事実を重く受け止め、自らは身を引きフィリピンに渡った。その時、ポケベルを皆さんにプレゼントしたのだ。

 この気持ちが痛いほどわかる。

 オレの渡航したアメリカでは、移植の待機期間に一年から、一年半は待つと説明された。移植コーディネーターが言う。「移植の順番が近くなれば、このポケベルを渡します。そうなれば、いよいよ移植が目の前です」

 渡米から九ケ月が過ぎた。オレたちはポケベルを持たされることはなかった。

 医師の宣告どおり、余命半年を過ぎてからは、icu(集中治療室)への入退院を繰り返していた。

 ある日妻が、コーディネーターに懇願した。「もう我慢できません。ポケベルが欲しいんです」。それは妻の心からの叫び声だった。明日になれば移植に一歩近づく。それと同時に死も近づくのだ。オレの体は壊れ、妻も精神的に追い詰めらていた。コーディネーターも気持ちを察してくれ、特別な計らいにより、「わかりました。用意しましょう」と言ってもらえた。しかし、これは気休めだった。ポケベルを持たされたところで移植の順位が上がったわけではない。ただ、オレ達にとってポケベルが希望の証しだったのだ。

 結局オレは、ポケベルを持つことはなかった。それ以前に容態が悪化し、緊急移植が決定したからだ。

 日本でも脳死移植が始まった。しかし肝臓移植は、今だに十一例しか行われていない。最後の希望を賭けた、移植待機患者にとって、この現実ほど辛いものはない。

 移植医療を受けるチャンスさえあれば、必ず助かる方は大勢いる。愛する人を助けることが出来るのだ。

 移植を待っているのは、患者さんだけじゃない。その家族や恋人が心を傷めて待っている。そして、ジャンボ鶴田さんも天国で、日本での脳死移植の発展を心から待っているに違いない。
僕は、これほどまで生きたかった。(萩原正人著)
お笑い芸人「キリングセンス」の萩原正人氏が、末期の肝硬変による瀕死の状態を経て、アメリカでの肝臓・腎臓の同時移植に成功した、その軌跡を克明に刻んだ著書。彼が今生きているのは、ボランティア、家族、友人、そして「爆笑問題」の支え、そして移植医療があったことが闘病記として綴られている。
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