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デジタルTransplant

ありがとう命の贈り物
1975年

6月

千葉県に生まれる。

幼稚園、小学校、中学校と健康な生活を送り、市内の高校に進学。
1993年
1月
高校2年の正月、咳が止まらず、近くの病院で風邪と診断される。
2月 だるさやむくみがでてきて、体調がすぐれない。さらに、おなかが張ったり、息切れの症状もでてきた。
3月 朝起きると顔がゆがむほど腫れ上がっている。千葉海浜病院で検査を受け、緊急入院。
4月 東京女子医科大学に転院。特発性拡張型心筋症と診断される。
6月 退院。
高校3年の2学期に復学するが単位が足りずに翌年3月に退学。大学資格検定試験を受け合格。大学進学を目指して勉強を続ける。

1995年
3月 風邪から肺炎を併発。東京女子医大に再入院。
6月 「心臓移植しか助かる道はない」と言われる。
8月 心臓移植を受けるために渡米。
9月 心臓移植手術。
12月 日本に帰国。
1995年 紳士服の仕立ての勉強に1年間通った専門学校を卒業。
移植医療の普及に関する活動をしながら、イタリア留学を思案中。
 大病を患うことも無く健康に過ごしてきた樋口健太郎さんは、高校2年の正月に体調を崩しました。熱は無いのに、咳が止まらず「風邪かな?」という程度で、近くの医院で受診し風邪薬をのみながら過ごしていました。むくみやだるさが増してきても「体調が悪くてごろごろしているから運動不足なのかな。食生活が悪いのかな」と、あまりおおげさには考えていませんでした。ところが、2月になると息が切れたり、おなかが張ってきたりして、とうとう3月には顔が腫れ上がってしまいました。朝起きて顔を見た時、その腫れのひどさにびっくり。千葉市立海浜病院で受診しました。
腹部を押されたり、心電図やレントゲンをとったあと、先生に呼ばれて「心臓が腫れ上がっているので、すぐに入院しなさい。」と言われました。拡張型心筋症でした。緊急入院です。心臓の負担を減らすために利尿剤を投与されると、大量の尿が出て、体重が7kgも減りました。1ヶ月半の入院中には一進一退を繰り返しましたが、状態が悪すぎて詳しい検査ができないため、4月の終わりに東京女子医科大学に転院しました。『今までに体験したことも無い物々しい検査』に「なにかたいへんなことになっているのかもしれない」と感じますが、薬が奏効し1週間ほどで眠れないほどの苦しさから解放されました。
その後も強心剤の投与によって心臓の腫れもおさまり、1ヶ月半の入院後に自宅療養ができるまでに回復して退院。高校3年の2学期から徐々に学校に通うようになりました。「階段の昇り降りが苦しくて、体育も参加できませんでしたが、朝起きて規則正しい生活と食事をするために、リハビリテーションのつもりで通学していました。」結局、単位が足りずに3月に退学することになります。卒業できなかった無念さがありましたが、大学進学をめざして勉強を続け、翌年大学資格検定試験に合格しました。
 退院後も月1回の外来に通っていましたが、「心臓が肥大傾向にあるけれど、症状は無いし、薬も変える必要はないので、様子をみましょう」と言われたのが‘95年1月。ほっとしたのもつかの間、3月に風邪から肺炎を併発してしまい、東京女子医大に再入院しました。「肺炎が治れば大丈夫だろうと甘く考えていましたがとんでもありませんでした。」きびしい水分制限と利尿剤による脱水症状が一番苦しく、気力も体力も無く精神的にも不安定な日々を送っていました。
6月初旬に主治医から「手術をしてみましょうか」と言われましたが、はじめはよく理解できませんでした。家族が呼ばれ、内科・外科の医師・移植コーディネーターの方から心臓移植しか助かる道はないこと。アメリカに渡って心臓移植をするという選択肢があること。経済面・精神面・待機期間など移植手術に関するメリット・デメリットのすべてを聞かされました。「手術後に働いている人もいるし、運動もできるようになるということも聞かされていたようですが、僕の記憶にはデメリットしか残っていませんでした。」
その話を聞いた2日後、肺炎から高熱を出し心不全に近い状態に悪化して、個室に移されました。羨ましく思っていた個室も実際は静かすぎて寂しく、苦しいだけではなく死の恐怖も襲ってきて眠れない日々をおくりました。1日の中で、気分の良い朝は手術を受けてみようと思い、夜になって苦しくて眠れないともうだめだと落ち込む。その繰り返し。「6月20日は、僕の誕生日。最悪でした。」
 健太郎さんのご両親は、一刻も早くアメリカで移植をさせたいと思っていらしたようですが、本人は迷っていました。主治医にも「移植手術はたいへんなことなので、本人に強い意志がないとできません」と言われました。「まだ死にたくないけれど、手術をしても助かる保証はない。誰かが死ぬのを待つことにも罪悪感があって踏ん切りがつかなかったんです。」この時、移植コーディネーターがこう話してくれました。「移植医療が多く行われているアメリカでさえ、脳死になった子供の臓器を提供することをすぐに承諾してくれる親は少ないんだよ。このままでは灰になってしまうけれど、臓器を提供すればその臓器が誰かのからだの中で元気に生き続けることができることを伝えると『この子がどこかで生き続けるのなら』といって初めて承諾してくれるそうだよ。」そう聞いて、「一番大事な心臓を頂いても、一生懸命生きていけばその人と一緒に生きていることになる。罪悪と思わなくていいんだ」とほっとしたそうです。
ちょうどその頃、数ヶ月前に心臓移植をした宮城さんが東京女子医大に戻ってきました。その姿を見て、「すごい!こんなに元気になるの?僕も頑張りたい。」彼の元気な姿に勇気づけられ、移植を受ける決意を固めました。
 多くの方々の財政的支援と励ましを受け、8月23日アメリカへ渡りました。渡米できる喜びと飛行機の長旅に耐えられるかの不安とでかなり緊張したものの、無事ロサンジェルスに到着。救急車でUCLAに直行しました。アメリカでは、検査や治療の前にまずソーシャルワーカーが面談し、本人と家族の精神的サポートをしっかりと行います。この対応とちょうど東京女子医大から研修に来ていた顔見知りの野々山医師の存在が心強かったそうです。しかし到着から2日後、血圧が低下しCCU(心疾患集中治療室)に入室。大事にはいたらなかったものの、その1週間後にも血圧低下を起こし、爪は紫に、手足は冷たくなり「死ぬってこんなふうになるのかな」と恐怖心が襲ってきました。「お母さん、僕手術までもたないよ」と弱音も吐きました。手術を待つ日々は、状態も悪く、辛くて朦朧としていました。母親が作ってきてくれる好物もほとんど食べられません。しかし、ついに入院から2週間目の9月7日、「ドナーがみつかったので手術ができるかもしれない」と聞かされました。本人はその後のことはほとんど覚えていません。しかし確かに、9月7日は健太郎さんのセカンドバースデイになったのです。
手術後の経過は順調でしたが、本人はしばらくボーっとしていて家族もずいぶん心配されたそうです。術後8日目頃から状態が安定し始め一般病棟に移ることができました。早くも翌日から歩行訓練。歩くのは4ヶ月ぶりです。「歩けることが嬉しくて、生きていることを初めて実感しました。」骨に痛みを感じたり、にきびができたり、腎機能が低下してむくみがでたり、手が震えたりという副作用に辛い思いもしましたが、少しずつ落ち着いて、9月20日には退院許可がでました。「アメリカに来て、初めて自分の足で外を歩き、空の青さと木々の緑の美しさに感動しました。医師にもよく歩くように言われていたので、体力の回復にあわせてアパートと病院の周りを散歩し、アメリカの雄大な自然を満喫しました。」3ヶ月の外来通院の後、12月14日日本に帰国しました。家族全員で迎えた久しぶりのお正月は忘れられません。
 「アメリカでは、言葉が通じないために病状を伝えるのに苦労しましたが、UCLAのボランティア(UCLAに留学中の日本人学生)が駆けつけてくれて通訳をしたり、話し相手になってくれて支えてくれました。病院のスタッフも明るくて温かく、よく気を遣ってくれました。きれいに手入れがしてある犬をベッドまで連れて来てくれて、無邪気に遊びました。きっと僕が子供に見えたんでしょうね。日本への帰国が近づいた12月10日に大学の敷地内にある大きな家でクリスマスパーティーが開かれました。すばらしい飾りと豪華な食事を、移植した人や病院のスタッフが楽しみ、誰でも話し掛けたり、肩を叩き合ったりしてすぐに友達になれる雰囲気がとても嬉しく、また羨ましくもありました。アメリカで移植を受けられたおかげで、楽しい時間が実感できるんです。移植前には水分の制限が厳しくて、口の中が乾燥して皮がむけるほど喉が渇いていたのに、今は飲みたいものが充分に飲めることにも幸せを感じます。すべてに感謝しています。」
 移植を受けてから3年。大学進学や就職も考えましたが、普通の生活ができるといってもまだ無理はできません。旅行をしたり、免許を取ったりしてゆっくり過ごしてきました。昨年からは紳士服の仕立てを学ぶために、千葉から東京にある専門学校に毎日片道1時間半かけて通いました。洋服に興味があったことと自分が作ったもので誰かが喜んでくれることを考えてのことです。シャツ、ズボン、ベスト、ジャケットを作成し、この9月に卒業しました。紳士服を仕立てることをこれからの仕事に結び付けていきたいと、現在はイタリア修業を目指しています。
 「いつか仕立て代を頂ける日がきたら、それが僕の独立記念日。せっかく与えられた命ですから大切に、前向きに歩いていきたいと思います。しばらくは、自分が元気に過ごしている姿を多くの人にみてもらって、かつての自分のように、移植を希望する人に勇気を与えていけるような活動もしていきます。日本もやっと法律ができて脳死からの移植が可能になりましたが、この1年間に1例もない現状は残念です。まだまだ時間が必要なんでしょうね。どこの国でも同じような道を歩んできたと思うので少しでも前進させたいです。自分は移植ができて本当によかったことを伝えていきます。医療に携わる人達も、移植という選択肢があることを日常的に多くの人へ伝えて頂きたいと思います。」

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