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[特集]愛する家族の臓器提供を決意して


 98年3月から99年12月までの間に、私は愛する家族を3人失った。長い間介護してきた義母が、1年4ヶ月もの植物状態の入院の末、他界したのが98年3月。そしてその年の12月、全く突然に最愛の息子に死なれてしまった。

実家の父親が、既に2年にわたってガンと闘い、最後の大手術を受け、私は病室に寝泊まりしてつきっきりの看病をしている最中だった。息子が20歳の誕生日を12月18日に迎えるため、私は前日に看病を母に交代し、久しぶりに我が家に帰った。息子に「20歳おめでとう。成人式のスーツ買おうね。」と気軽に声をかけ、誕生日の朝は親子で普通の会話をし、別れたのだ。それっきりだった。

夜中に、けたたましく電話のベルが鳴り響いた。父の容体が急変したのだと思いとっさに受話器を取り上げると、電話の向こうの声はなんと弘前大学の寮に居るはずの長男だった。「母さん、早く病院に行ってくれ、ケンジが…。」「あーっ!何それ!」思わず、私は叫び声を発したが、喉がカラカラに渇き、声がかすれてしまったことを覚えている。瞬時に、私は息子が既にこの世にいないと直感したことも覚えている。なんでそんなふうに思うのか、でも私はほとんど確信してしまっていた。もう、あの子はいないと。母である私の本能が、そう感じさせたとしか思えないのだ。とるものもとりあえずハンドルを握りしめ、涙で曇るフロントガラスの向こうを見据えて病院に向かった。

この3月まで、私はこの病院の脳外科病棟に通い詰めていた。義母の死で、もうここには縁がなくなると思っていたのに。目をつぶっていてもわかりすぎるくらいわかる病棟に、今度は息子が…。ナースセンターに顔を出すと、顔なじみの看護婦さんがみえた。「あー、木村さん…」彼女は、それ以上は言わずに、私の手を強く握りしめてくれた。彼女の様子で、私は全てを理解しICUに入った。

主人はガックリ肩をおとして声をあげて泣いていた。息子は既に人工呼吸器を装着されていた。義母の看病の経験から、点滴の種類も強心剤投与の数量も血圧計、心電図、心拍計も何もかも全て、何のためにあるのか、そしてそれらが示す数値が何を意味しているのか、全てわかっていた。それでも、私は泣きながら叫んだ。
「起きてちょうだい、憲治お願いだから目をあけて…」と何度も何度も…。
20歳と4日の命で彼は遠い世界に旅立っていった。ガンと闘っていた父は、目に入れても痛くない程にかわいがっていた末っ子の孫の死を知ることもなく、1年後に他界した。
私は、いっぺんに12月が嫌いになった。クリスマス・イブも、年末年始も大嫌いだ。


 憲治は、ひき逃げされて死んでしまった。バイクで信号待ちのところを後ろから追突されて、後頭部を強打し、道路に跳ね飛ばされ顔面を強打していた。その為、脳は大打撃を受けていたが、首から下の体は、ほとんど無傷だった。手も足も胸も全くきれいだった。

主治医は私達夫婦に「ちょっとお話が…」と切り出した。「脳はすでに死んでいる状態と思われるが心臓は動いています」とおっしゃったと思う。実際、私達はほとんど気が動転していて、あまり鮮明にいろいろ覚えていない。それでも医師が“脳死”であることを説明してくれた時、CTスキャンの断面図を見て、はっきりと、ダメだと納得したのは覚えている。それから次に、心臓は動いているが、今これは動かしているのだということをおっしゃった。これも理解できた。しかし、これから先のことは、全く予期していないことだった。おもむろに医師は、“臓器の提供”について話し始めたように思う。

「えっ、何ですか?臓器の提供?それって何?」今まで私達の語らいの中に、“臓器の提供”という言葉は存在しなかった。混乱している心の中に、全く別の異物が入り込んで来たように思う。憲治の何をどうしようというのか。一体何が始まるのだろうか…。
臓器移植コーディネーターが病院に来られて、私達は詳細な説明を受けた。
“臓器移植法”があることだって、今の今まで知らないのに、ドナーとかレシピエントとか、一体なんだろう。悲しみに追い打ちをかけるように不安が体中をかけめぐった。彼がドナーカードなるものを持っていないことがわかると、次に心停止後の腎臓提供に話が移った。ここまでの時間経過の中で、私達夫婦の脳裏には、ある一つの決心がつきだしていた。

憲治は、4歳の時に先天性心臓病のため、手術を受けていた。大量の輸血が必要だったが、近所や親戚に頼っても集められず、思い余って主人は、母校の学生さん達の善意を頂きに行ったのだ。おかげで憲治は生き返った。その当時の思いが、主人と私の脳裏にとっさに蘇っていたのだ。もう助からぬ命なら、お返しをしよう。あの時、申し出てくださったたくさんの方のお陰で、ここまで丈夫に生きてきた憲治の体の一部で助かる人がいるのだ。医師がすでに死と認定しても、まだ温かい手を握り締め、彼に報告した。

「憲治いいよね。お母さん達、間違っていないよね。お兄さん達にお返ししようね。君の目が、腎臓が、足の骨が、たくさんの人を助けることができるんだよ。いいよね。」何度も耳元でささやいた。
本当は、肺も肝臓も腸さえも、助けられる人にあげていいと私達は決心していた。しかし、これらは臓器移植法に基づかないとできないことだった。足の骨は“骨移植研究会”の医師の説明で、片足だけで数十人の患者さんが助かると言われた。たくさんの方が、苦しみから救われる。それだけでいい。これ以上何も望まない。


 99年2月末、突然テレビのニュースがけたたましく騒ぎ出した。第一例の脳死移植が高知県で亡くなられたドナーの方により行われたとメディアが大騒ぎしているではないか!これが脳死移植だったのだ。ほんの2ヶ月前、私達は静かに彼を送った。彼の体の部分部分はすでに移植され、レシピエントの皆さんは目が見え、おしっこが出てすでに社会復帰されている方もいると聞かされていた最中のことだった。あんなに大騒ぎされたら、ドナー家族はどんなにか辛いだろうに…と怒りがこみ上げてきた。亡くなったドナーの方、残された家族、さらに移植のために全力をかけて闘っている医師や関係者の皆さんが、どんなにつらい思いをしているのかと思うと…。騒ぐだけ騒いで後は放ったらかし…。

私達はまず、愛する者を失った悲しみを癒していかなくてはならない。そのためのケアは何ひとつないのだ。そして、臓器提供の決断が本当に良かったのかと悩む苦しみも癒さずして成されるべきではないのだ。生きることも亡くなることも、技術や形よりも心の問題として取り組むことが大事なのだと思う。何かが日本の社会には欠けているのだと思う。


『―レシピエントの皆さん、お元気でお暮らしください。私達の愛する者の一部が皆さんと共に生きているのだというだけでいいのです。そう、本当にそれだけでいいのです。生きているということだけで−。』

私は、この2年間に愛する家族3人の生き様と死に様に身近に接してきた。義母の壮絶なまでの生きる闘いと、辛い入院のあとの安らかな寝顔。朝、いってらっしゃいの言葉が最後となってしまった息子の死と臓器提供。そして3人目は、痛くて辛いガンとの闘いの中で、最期までリンとした男を貫いた父と−。

生あるものはやがて必ず死ぬのです。死のあることは生を受けた瞬間分かっていることなのです。ならば、今日を精一杯生きよう。今日が過ぎたのなら明日を精一杯生きよう。それでいい、とにかく精一杯生きて行こう。でなければ、愛する者達の死に申し訳ないのではないか。いえ、彼らのために生きるとは言わない。今ある家族のために、精一杯生きて行こう。自分のために、精一杯生きて行こう。今はこう決心しているのです。
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