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デジタルTransplant

 1948年生まれ。日本ルーテル神学大学・神学校卒、立教大学大学院修士課程、シカゴ・ルーテル神学校博士課程修了。神学博士。ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校教授(教養学・キリスト教倫理担当)。日本聖書神学校講師。ルーテル医療従事者の会会員。
 日本中のひとが大きな衝撃を受け、深く考えさせられました。このための法的基盤はすでに一年以上前にできていましたし、その前にも長い議論がありました。しかし、いざ現実の出来事になると、途方もない重みをもって一人ひとりに迫ってきます。脳死状態での死との判定、心停止以前の臓器移植手術、そして重症の患者さんの回復・・・「さあ、自分ならどうする」と考えさせられるからです。
臓器提供意思表示カードを見ればわかるとおり、脳死状態になった時の選択肢はひとつだけではありません。二つも、いえ三つもあるのです。臓器を提供するにしても心臓死まで待つことも選べるし、そもそも提供しないこともあり得るのです。じたばたしても死ぬ時は死ぬんだ、どうしようもないとか、神様任せだというわけにはいかないのです。自分で選ばなければなりません。神様を信じていても、いえ、信じるからこそ、与えられたいのちをどう生きるか、どう締めくくるかは、自分で責任をもって選び取らなければならないのです。
一人ひとりのかけがえのないいのち。キリスト教の信仰では、そのいのちが創造主である神によって授けられたものだからと考えます。その人固有のいのちですから、個々の生命体には個性があります。それを守るために免疫の仕組みが働き、異物が入ってきたら抵抗し、排除しようとします。だのに、臓器移植ができることに、人間に備えられた「いのちの固有性」と同時に「いのちの連帯性」を見いだし、輝き、またいのちのありように深い洞察を与えられます。いのちを分かち合う、与え合う、支え合う(これを「愛」という言葉で表現してもよいでしょう)ということが精神的な意味でいわれるだけではなく、身体的・生物的生命のレベルでも可能になるように造られているというのです。
 このいのちは、単なる部品の寄せ集め(だから部品の交換が可能)でもありませんし、生命の尊厳を重んじるからといって、一分一秒でも長く生かすことが絶対的命令だとは必ずしも考えません。もちろん、与えられたいのちを粗末にしてよいわけはありませんが、聖書にはこのようなキリストの言葉も記されています。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書)。これは一般的な自己犠牲の教えというより、自己完結的ではなく、他者とのかかわりの中にこそ、真実のいのちがあることを示しています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(同前)という聖句も同じことを教えています。
昨今「二人称の死」という言葉がよく語られるようになりました。実は「二人称の生」ということも考えたいのです。「あなた」と親しく呼ぶ存在とのかかわりにこそ、豊かないのちがあるということです。その「あなた」とは愛する者、家族や恋人、親友でもあるし、神様でもありましょう。しかし、自分の地上の生の最後に臓器移植を望んで死ぬことは、一度も会ったことのない、顔も名前も知らない「あなた」とのかかわりの中に、自分のいのちを発揮する道を選んだということではないでしょうか。
家族にとっては、脳死状態の体からの臓器移植を認めるということは人間的な感情からすれば大変つらいことではなかったかと推察しますが、敢えてそれを受け入れたのは、あくまでも本人がそのような「二人称の生」をまっとうしたいとの願いを実現するためだと思い、深く敬意を払い、生と死の主である神様の慰めと祝福を祈ります。
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脳死・臓器提供での仏教的生き方の智恵
〜「にも関わらず」ドナーの意思を大切に〜
キリスト教の視点で見た脳死・臓器提供
〜選び取る「二人称の生」で豊かないのち〜

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