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デジタルTransplant

 1939年生まれ。駒沢大学大学院修士終了。曹洞宗教化研修所講師、大正大学講師、武蔵野女子大学講師(いずれも死生学・生命倫理担当)。医療と宗教を考える会世話人。
 愛する家族が突然、生死の曖昧な状態に陥ったとき、家族には二重三重の苦悩と混乱が襲いかかります。(1)突然の病気や事故のショックと混乱。(2)何かをしたいのに手が届かなくなった事から来るいらだち。(3)その裏返しとして「最善をつくしてください」という過剰医療への傾斜。(4)あの時こうすればよかったのにという負い目。(5)「死」などの事実を認めたくないという生への願望、などが渦巻くでしょう。
こうした混乱の特徴は、自分の感情に振り回されて、「知性」と「患者の心」が見えなくなっていることです。こうした混乱の時、そこから立ち直って患者のために何が一番大切な事なのかが見えてくるようになるのには時間と回りの支えが必要です。
そのような状態が生じた時、家族がどのように回復してどのような行動を取ったかについての早い事例は、1975年にアメリカで起きたカレン・クインラン嬢の事故でしょう。キャンプ場で薬物を使い朦朧とした状態でジントニックを飲んで嘔吐し、その吐瀉物が気道に詰まって脳死状態になりました(本当は植物状態であることが後にわかる)。このとき、医師の努力をみて「もう自然に任せてやってください」と言い出したのは兄弟たちでした。ここに、混乱から知性を回復し、自然に任せる(神の“み心”に任せる)宇宙観への帰入が実現する「よりよき生き方」を修行する態度がよく見えます。
愛する家族の脳死状態を、蘇生限界点を超えて死の領域に入ったと、知性で事実を認める事を仏教では「如実知見」といいます。更にドナーがよりよく生きようとして希望した「提供意思」を生かしてあげようというのも愛と知性です。死を認めたくない愛や感情と知性との葛藤の中で、「にも関わらず」知性とそれによる愛を実現しようとし、それを信じたのが、脳死での臓器提供を認めた家族の心だったのではないでしょうか。
 現代は「価値多元化の時代」です。いろんな価値観が混在する社会です。ですから、これだけが正しいという一律の価値観を人に強要はできません。脳死状態になったとき「霊魂が有る」という人も、「たましいとは愛と人格である」と考える人も共存していける柔らかい社会を作りたいものです。反対者も移植希望の患者も提供希望者も互いを傷つけないでいられる社会こそ仏教の「空」の精神でしょう。価値多元化の考え方は「臓器移植法」にも現れ、脳死状態は「死」であるか「死でない」かは、命の主体であるドナー本人が決めなさいというわけです。医学という絶対者が決めてはくれないのです。
そうすると、仏教も脳死・臓器提供についてこれだけが仏教徒の生き方であると一律に押しつける事はできません。問題はそこでよりよき生き方を実現できるかどうかです。
仏教では愚かさを繰り返し、苦しみを再生する事を「輪廻(りんね)」といいます。それを繰り返さない事を「解脱(げだつ)」といいます。後悔を残さず「よかった」といえる事です。脳死・臓器提供の「場」で解脱をめざす生き方を選択するのが智恵です。そして、自らがつらかったから人の痛みを救いたいという心を「慈悲」といいます。また、自分の持っているものを「無条件」に人のために役立てることを「布施」といいます。原語は「ダーナ(檀那)」です。それがラテン語に入って「ドナー」になります。布施は「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」で行うのが空の実現だといいます。提供する人と、受け取る人と、やり取りされるものとの三者に欲望の汚れがない事です。したがって「献血制度」のように社会的に「三輪清浄」をこれから確立していくことが人類の救いにもなるのです。
脳死・臓器移植と日本文化「仏教から答える脳死・臓器移植医療」
http://www.think-life.gr.jp/
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