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自分のいのち、からだ、くらし、
しあわせを統合して考える学問が広く受け入れられつつある。
人のいのちを科学でコントロールできるようになってきた今こそ、人間としての人格と尊厳を重視しなくてはいけない。
21世紀の医療のあるべき姿をバイオエシックスの視座から体系化しようと奔走している木村利人氏に話を伺った。
バイオエシックスとは
学問を体系化するパワーが必要
小さい頃からいのちの大切さを知る
脳死と選択権
臓器提供についての捉え方考え方
移植医療とインフォームドコンセント
誰のいのちか
バイオエシックスとは

雁瀬
木村先生のお話は2年ほど前に初めて聴講しました。乳癌手術を体験した患者団体が主催したインフォームドコンセントの重要性を考える勉強会に講師として招かれてお話をなさっていました。

木村
ええ、その会のことは覚えています。その時いらしていたんですね。

雁瀬
そのころ抗がん剤に関する執筆をしていたので、“がん治療におけるインフォームドコンセントの在り方”に非常に関心があってお話を聞きに行きました。“誰のためのいのちか”というお話がとても印象深かったのですが、先生のご専攻は“生命倫理”ということになるのでしょうか。

木村
正確には“バイオエシックス”と言っています。ギリシャ語でビオスはいのちをエシィケーは民族・習慣を意味し、この二つの言葉をつなげて一つにしたオリジナルな用語です。生命倫理と訳す事もできますが、それでは倫理学の一分野で、医療や看護にどのように適応させるかという話が主体になってしまいます。バイオエシックスは、医療や倫理、政策、財政、哲学、宗教などいろいろな学問の縄張りを越えてホリスティックな立場に立って統合し、新しい研究課題を公共政策にまで持っていこうというものです。

雁瀬
もう少しわかりやすく言うと…。

木村
人間の基本的な人権と尊厳とを、医療や臨床の場でもより豊かにより内容を充実させていくものですね。人にはそれぞれ人生のストーリー、価値観がありますから、その中でいのちの最終的な決定は自分で選ぶ。もちろん医療技術や処置の方法そのものへの決定は困難かもしれませんが、いろいろな選択肢を知る権利を行使して自分で選んで生きていく、という新しい時代のいのちの在り方を幅広く考え直していこうというものです。

雁瀬
それまで、医師の決定に静かに従うのが良い患者さんと思われていましたが、そうではなくて、自分の人生観に合う医療を患者さん本人が選択できるような環境を整えてあげるための取り組みですね。もともとアメリカから発生したものなんでしょうか。

木村
これは1960年代から世界的スケールで発生しましたね。そのころから医療技術が人の想像を超えて生命を操作することができるようになりクローズアップされたんです。先端医療技術の開発は人権を守ることについても進んでいる先進国でのことですから、当然治療方法の規定も厳しいので、発展途上国に持ち出して人体実験しようとします。だから、発展途上国の人達の人権を守る上でも世界的スケールで統一基準を作っていかなくてはいけなかったんですね。
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学問を体系化するパワーが必要

雁瀬
30年も前から世界的スケールで取り組まれていたわりには、日本での浸透が遅れているように感じますが…。

木村
それはとても大切なポイントです。日本は130年位前の明治維新以来、輸入を専門にしてきましたよね。これは学問も同じなんですが、その本質的な問題点がわからないままに何でも輸入しちゃうんです。それと同時に人権や消費者の権利、環境保護の運動などを含めて体系化して社会の中に組み込むパワーが日本には無いんです。

雁瀬
マネはするけど、日本に馴染むものになかなかならない…ということでしょうか。

木村
ええ。たとえば、1972年にアメリカ病院協会が「患者の権利章典」を作りました。病院協会が作ったといっても起草委員会のメンバー達は、実際には患者の代表や医学以外の法律や宗教の専門家、社会学者などさまざまな分野の人で構成されており、“患者は、人間として尊重されなくてはいけない”“患者は自己決定ができる”ことが保証されています。病院に行けば「患者の権利章典」のパンフレットが手渡され、「あなたのからだのことですから、何でも自由に聞いてください。医師は喜んで答えてくれます。」と書かれています。さらにすごいのは、この内容が章典が宣言された次の年には小・中学校の教科書に入っているんです。

雁瀬
子供でも「この先生はきちんと答えてくれない」と言えるんですね。日本では大人でさえきちんとそこまで言えるようになっているでしょうか。

木村
社会のシステムを変える時は、小学校の教科書に入れていく事が必要なんです。たとえば脳死体からの移植の問題にしても、アメリカでは中学生の時にクラスでディスカッションするんですよ。それぞれがテキストなどから知識を得て、賛成と反対にわかれて討論しながら考え進んでいくんです。これはまた、アメリカの大統領委員会が脳死での移植をめぐる基準作りをやっているのと同時期なんです。

雁瀬
政府の動きと小学生の教育が同時に進めば、その小学生が社会を支える時代になった時、政府レベルの問題もすっかり根付いたものになっているわけですね。

木村
わたしの娘は中学校でオーケストラのサークルに入っていました。大きなショッピングセンターのモールでのイベントに招かれて演奏したんですが、それが「イエスと言おう。他の人が生きるために」という移植のキャンペーンでした。シンボルマーク入りの風船を配ったり、ドナーカードを配ったりする事にも参加したのです。20年も前のことです。日本も、何かを立ちあげた時には、そこで安心せずに常に真価を問い直すこと、そして次世代につながるような教育に結び付けることができればかならず道は拓けると思います。
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小さい頃からいのちの大切さを知る

雁瀬
日本では“小さな子にはまだ難しくてわからないだろうから教えなくていい”という風潮を大人が勝手に判断し、決めているように感じます。

木村
白血病になったり移植が必要な小さな子は周りにいっぱいいるんですよ。身近に病気の友達がいることを知って、いのちを大切にしたり、いのちを支えるために何かしようという教育を小さなころからしなくてはいけないんです。

雁瀬
日本の臓器移植法では、15歳以上でなければ臓器提供の意思を表示しても認められません。これは、遺言の有効年齢をもとに決められたようですが、小学生や中学生では自分の生死に関わる判断は難しいとみなされて、考えることすら取り上げられているようにも思います。自己決定は難しくても、子供たちが友達や家族と話し合うことで、いのちの大切さを知ることができますよね。

木村
日本では中学生でも臓器提供に関する意思の表示ができないんですね。アメリカではとにかくすべてを知らせて、それについてオープンにディスカッションすることが当たり前なんです。生殖医療でも遺伝子治療でも国会の公聴会に中学生が聞きに来てるんです。科学の授業の一環で正式な特派員として来ていて、委員長にインタビューしたり写真を撮って、学校に帰って報告する。これが当たり前です。今日、実は厚生省の会議に出てきたんですが、今日の会は非公開でした。少しずつオープンになってきていて、議事録などはインターネットで全面公開になっていますが、一般の人すら参加できないのが日本の現状です。アメリカは新しいことに取り組む時に、科学者が先走って何でも決定し進んでしまうのではなくて、その科学者達は社会に対して説明する責任を充分に果たすことを心掛けています。とにかく、オープンでダイナミックです。行政や専門家はすすんで教育現場に足を運んで説明する責任を重視し、また教育を受ける側も専門の機関に行ってインタビューするなどの基盤があって定着していますからね。

雁瀬
昨年は、高校生が夏休みの研究テーマや文化祭での発表のために話を聞きに来てくれることが多かったんですが、みなとても純粋で、熱心でした。「結論じゃなくて話し合う過程が重要ですよね!」なんて明るく柔軟に考えて、真剣に意見しあい、それをまた外に向かってアピールする様子をみて、若い世代がどんなに大切か痛感しました。
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脳死と選択権

木村
先日、ジョージタウン大学からロバート・ビーチ教授を招いて、脳死や臓器移植を含めた生命倫理の講演会が早稲田大学でありました。アメリカでは1981年に大統領委員会が脳全体の機能が不可逆的に止まる「全脳死」の定義を示し、これを死とすることが前提ですが、ニュージャージー州だけが脳死と心臓停止による死を選択できるようになっているんです。

雁瀬
選択権があるのは日本と同じですね。

木村
ニュージャージー州にとても多く居住するオーソドックス・ユダヤ教信者は、心臓が動いている以上は死亡とみなせないという立場を取るので、そこに配慮した結果です。日本の場合は、選択権があると言っても、臓器提供の場合に限って脳死を選択できるとしているだけで、死そのものを選択できるわけじゃないんです。ちょっと理解しにくいですね。

雁瀬
ええ。日本では臓器提供の意思の有無によって、脳死と従来の心臓停止による死の2つの死ができてしまって、死亡時刻や相続などに問題を残しています。移植医療が日常におこなわれている欧米諸国のように「脳死が人の死である」と断言しない曖昧さがその進展を妨げているのではないかという意見も多く聞かれているんです。だけど、ロバート・ビーチ教授のお話を聞くと、「重要なのは個人の選択権で、死の基準を選べる日本のほうがアメリカより進んでいるのではないか」と言われているのがとても面白かったです。

木村
私もバイオエシックスを研究する立場として、すでに『いのちを考える』という著書の中で「人間としてのアイデンティティを、脳の全機能の不可逆的停止により喪失した場合、もはや身体は患者である自分自身にとって意味の無い単なる物的存在に過ぎなくなると私には考えられる。ただし、この判断への方向づけとして、正常な意識の時に明白にみずからの<脳基準死>選択の意思を表明しておくべきだと考えている」と著わしていました。

雁瀬
まるで日本の臓器移植法のルーツみたいですね。もう少し法的に明確な整備ができれば、死の選択権がある日本はバイオエシックスの考え方にはまっているんですね。

木村
ところが、本人の生前の意思を家族が拒否できることまで認めているのは問題です。本人の自己決定権が尊重されないことになるんですよ。ヨーロッパの多くの国では、臓器提供を拒否する意思を表しておかないと当然のようにドナーになってしまいます。方法は様々ですが、本人の意思が尊重されることがもっとも大切です。
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臓器提供についての捉え方考え方

雁瀬
臓器提供に対して日本とアメリカではどうしてこんなに違うのでしょう。

木村
肝臓を患った日本の友人が、運良くテキサスで臓器の提供を受けて今とても元気に活躍しています。臓器を提供して頂くチャンスがあれば喜んで頂きたいと言っていたし、実際に移植のチャンスに巡り合い、新しいいのちの喜びをわかちあいたいと思って帰国したところ、親友からこう助言されたそうです。「元気になったからと言って大きな顔をして勝手なことをいってはいけない。その喜びの背景には死と悲しみがあったんだから、その恩恵を受けた君は黙って静かに隠れて暮らすべきだ。」どうして日本ではこんな発想になっちゃうんでしょう。亡くなった方にとっても臓器提供によって人を救うことができたという喜びがあるのが伝わらないんですね。

雁瀬
移植を待つ患者さんさえ「人の死を待ってまでも?」と言う言葉に深く心を痛めることがあるようです。

木村
日本で今まで行われてきた腎臓移植は毎年500件前後あるのですが、心臓停止後の献腎が3分の1、あとは家族からの生体間移植です。国内では、肝臓も肺の移植も家族からの提供が先行しました。ご家族の中で適合する方がいて移植ができるのはいいのですが、健康な方のからだに傷がつくことや、適合しない家族の方は心に傷を負いますから、そこにも問題が潜在していると思います。

雁瀬
ええ。ドイツでは、臓器が二つあるのには意味があるのだから、と言う立場で生体間移植には批判的です。

木村
生体間移植がどんどん行われると、“人の死を待つより、まず家族でどうにかすること”を強要する風潮にならないかが心配です。

雁瀬
人の死を待つのではなく、亡くなった方の善意に応えるんです。学生と話をすると日米の考え方に大きな違いがあります。日本では「人の臓器までもらって長くは生きたくない。ただ、自分や家族がもらわなくては生きていけない状況になったら、その時はわからない」と言います。アメリカでは「死んだ時に自分の使える臓器で誰かが助かるならどうぞ役立ててください。自分もあらゆるチャンスを捉えて生きていたい」と言うんです。

木村
自分の生への執着に差があるようですね。これは変わらないのでしょうか。

雁瀬
私が“インフォームドコンセントの必要性”を唱え出した20年前には、日本にそんなものは必要ないと笑われました。医師と患者の間には信頼関係があるのだから、“あうんの呼吸でやればいい”“変なことを吹き込まないでください”と。確かに日本では「説明と同意」という訳で広まりましたが、基本的にはそれではいけないんです。インフォームドコンセントというのは、単なる医療側の説明や同意ではなく、病状の真実を伝え、具体的な検査や手術、薬について説明し、予後のメリット、デメリットを含めたあらゆる選択肢やリスクも詳しく開示し、わかりやすく納得するまで説明した上での双方の意思に基づく医療をつくるものとして捉えなくてはいけない。今では、日常的に“インフォームドコンセント”という言葉が聞かれるでしょ。時代が変わったのではなく、この20年間にわたって変えるような働きを一生懸命してきた結果です。

木村
移植医療もそうですね。

雁瀬
そうです。亡くなる時に臓器を役立ててくださいという意思を表示していた方の生前の善意をありがたく受けて、これが正しいプロセスを経て譲り渡されて、提供された方の新しい人生の充実に役立つような時代を創って行かなくてはいけないんです。
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移植医療とインフォームドコンセント

雁瀬
ところで、日本の移植医療が30年間停滞してしまったひとつの要素に「和田心臓移植」があります。密室で行われたこと、情報の公開がなかったこと、充分な検証がなされなかったことなどから深い医療不信を招きました。今も根強くある医療不信は、患者さんあるいは一般の人に対する充実したインフォームドコンセントで払拭できるのでしょうか。

木村
この事件後、医学会がこれをどう見るのかを提示することが必要でした。日本では1970年にはどんな病人にも権利があるという「病者の権利宣言」を発表しているんです。これはアメリカよりも2年も早い発表でしたが、もともと和田心臓移植告発との関連で出したものでしたから、不起訴となった段階で消えてなくなってしまったんです。「病者の権利宣言」をシステム化することに結びつけられなかったのです。

雁瀬
前のお話にもありましたが、体系化するパワーがないことに問題点があったんですね。

木村
結局、学会や公的な機関での総括が不十分なまま新しく一歩を踏み出すことがどんなに困難かということが裏付けられましたね。もう一つは、医師が知識と経験を持ちあわせた専門家としての信頼度が高かっただけになおさらその失望感が不信に結びついたとも言えるでしょう 。

雁瀬
医療不信は日常の医療の中にも見られます。日頃の病気の時さえ、きちんと納得できる説明が無いことが多いのに、いのちの灯が消えようとしている時に果たしてその時立派な医療が行われるのだろうかと心配になるようです。

木村
それはありますね。とにかく移植禁止法とまで言われる今の厳しい状況からスタートして、1例ずつ築き上げていかなくてはいけないでしょう。私は、世論が変わってくると見ています。情報の公開や日頃の診療での充分なインフォームドコンセントを蓄積しながら信頼を回復できるといいですね。焦ってはいけないと思います。

雁瀬
実際には、脳死になって臓器を提供する可能性のある方は、多くが交通事故や脳卒中などで救急に運ばれた方々です。懸命な救命医療が行われたにもかかわらず脳死状態になってしまった場合に、医師側には医療の限界と、家族の期待に応えられなかったという敗北感があります。そこで直ちに、他の人のいのちを救うために臓器提供という選択肢があることを告げるのは大変難しいことだと感じているようですが…。

木村
アメリカでは、回復の見込みが低い末期の患者に過度の延命治療を行っても医療費が無駄になることに気がついて「無駄な延命治療はしない運動」が起きました。日本では、二度と回復しない脳死の患者に人工呼吸器を付けて延命することが、現実的な医療費の流出を含めて前向きな処置ではないことを家族に伝えているのでしょうか。

雁瀬
脳死になった患者に対する処置にはいくつかの選択肢があるのですが、一般の方はあまりご存知ないと思います。

木村
もともとは、脳死と臓器移植とは切り離れた問題だったんです。「脳死は二度と回復しません。脳死になった後の治療費は無駄です。」ということと、「臓器の提供ができます」ということは別の問題と考えたほうがいいんです。臓器提供に限らず医療全般で、科学が人の生命をある程度無制限に長くコントロールすることができる時代になったんです。これにストップをかけるようにしないと、本人のみならず家族にも損失が生じる可能性があります。それはすべて伝えておくべきでしょう。

雁瀬
だからこそ生きているうちに自分の生き方、死に方についてよく考えて、意思を表示しておくことが大切なんですね。

木村
本人も家族も万が一の時に、自分が選択する方法をよく知らされておくべきです。それが、インフォームドコンセントであり、教育なんです。
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誰のいのちか

雁瀬
一般の医療に関するバイオエシックス的事例について具体的なお話を伺いたいのですが。

木村
まず、仮死状態で生まれたお子さんが、人工呼吸器や点滴の管を付けられて、意識の無いまま2年余り病院で生かされていた例があります。子供の人格のあかしを感じることも無く、生きている実感もしないので、両親が人工呼吸器を外して欲しいと医師に言いましたが、病院側は治療方針は変えられないとして、応じませんでした。意識が無く回復の見込みが無いお子さんの場合は、親権を持つご両親の意思決定に従うものです。また、成人で本人の意思が確認できない場合には、家族が判断します。医療側が自己裁量で勝手な選択をしてはいけません。バイオエシックスの立場からは“死なせないのが医療”ではないんです。

雁瀬
誰のための医療か、何のための延命か考えさせられますね。

木村
もうひとつは、宗教上の理由で輸血を拒否するので、救命できなくなるケースです。アメリカでは、 輸血をすれば確実に治るのに、意識のある成人が宗教上の理由で拒否をするという価値判断をした場合は、その決定に委ねられます。しかし、子供の場合は、医療側が親権を持つ者から親権を委任されて、というか剥奪して子供のいのちを救う行為が裁判所の緊急の介入により法的に守られるシステムになっています。両親の信仰を価値判断できない子供に及ぼすのはいけないのです。子供と親の価値判断は違うのです。常に、バイオエシックスの立場からその医療によって誰の利益になるか、何が患者の利益になるかを基本に考えるべきです。

雁瀬
がんの治療でもそうですが、知りたい時にはきちんと知らされた上で、治る見込みがあれば抗がん剤や放射線療法を受けるし、見込みが無いなら無痛治療によって最期まで自分らしい過ごし方をすることなどを自分で選択していける環境こそ、自分のための医療につながる気がします。

木村
自分のいのちも健康も自分のものですからね。特に移植医療について言えば、本人が決定したことを家族も尊重して欲しいですね。そのためにも家族でよく話し合っておくことが大切です。そして、小学校の時からいのちの大切さや生や死について考える子供向けのバイオエシックス教育のプログラムを実践していくことが必要です。

雁瀬
ありがとうございました。医療の分野にとらわれず、幅広くいのちを考えることの大切さを改めて知った思いです。
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木村 利人(きむら りひと)
1934年東京生まれ。早稲田大学第一法学部卒、同大学大学院法学研究科博士課程修了後、チュラロンコン大学、サイゴン大学、ジュネーブ大学大学院等教授、世界教会協議会(WCC)エキュメニカル研究所副所長、ハーバード大学研究員等を経て、1980年以降ジョージタウン大学ケネディ倫理研究所アジア・バイオエシックス研究部長、教授。現在、早稲田大学教授(人間科学部)、ジョージタウン大学医学部客員教授、CIOMS(国際医科学機構協議会/WHO)国際委員、メディカル ヒューマニティズ レビュー(テキサス大学医学人文科学研究所)編集委員。
著書として「いのちを考えるーバイオエシックスのすすめ」(日本評論社)、「あなたのいのちは誰のものー人権運動としてのバイオエシックスの新しい展開」(日生協医療部会)、「患者にとって医療とは何か」(早大人間総合研究センター)など多数。

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