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デジタルTransplant

ありがとう命の贈り物
1974年
6月 福島県郡山市に生まれる
7月 黄疸が出て、精密検査。胆道閉鎖症と診断される
8月 福島県郡山市に生まれる
最良の経過をたどり、普通の子と何ら変わらぬ日々を送る。

1987年

8月 中学1年の診察で肝機能の低下を指摘される
11月 仙台市の日赤病院に40日間入院
日常の生活には支障なく、中学も無事卒業。情報技術を学ぶために高校に進学し、勉学と部活を両立していたが、高校2年に進級してまもなく体調不良を訴える。
1991年
4月 東北大学医学部付属病院にて2週間の検査入院
11月 強い黄疸が出る
1992年 2月 東北大学医学部付属病院に再入院
3月 胆汁を直接体外に出す管を入れる手術施行
8月 さらにもう1本胆管に管を挿入する手術
10月 「残された治療方法は移植しかない」と告げられる
1993年 3月 移植を受けるためオーストラリアへ渡る
4月 脳死ドナーからの肝臓移植手術
5月 退院後、現地での通院
8月 日本へ帰国、高校3年に復学
1994年 6月 足りなかった単位を補習で修了し、1年3ヶ月遅れて高校を卒業
1995年
4月 看護婦になるために看護学校入学
1998年 来春の卒業を目指して勉強中
 広川陽子さんは生後間もなく胆道閉鎖症と診断されました。広川さんが生まれた昭和49年は、まだ胆道閉鎖症が今ほど一般的に理解されていない時代で、その診断に詳しい医療機関でなければ小児肝炎等と間違われて手遅れになることも少なくありませんでした。
当時は、胆道閉鎖症は生後60日以内に手術を受けても治る可能性は20%といわれていましたが、陽子さんは生後70日目に受けた手術によって完治したかに見えるほど最良の経過をたどったのです。 母親の心配をよそに、幼稚園では一度も休むことなく通い、小中学時代も、同年代の友達と元気で活発に毎日を楽しんでいました。ところが、高校に入ってから、本人に自覚症状が無いまま勉学と部活に打ち込むうちに、黄疸が見られ始めました。陽子さんに気付かれないように気丈に振る舞う家族の気持ちは、その直後に「胆道閉鎖症再発」の診断に打ち砕かれてしまいました。高校2年の2月以降、再び病との戦いの日々を送ることになります。
 胆道が詰まっているため、手術で胆汁を直接体の外に出すパイプを身体に入れ、右脇腹にはパイプからの胆汁を溜める袋を常に提げることになりました。しかし症状は好転せず、5ヶ月後に再度パイプを入れる大手術を受けました。袋を付けているので満足に寝返りさえ打てず、睡眠障害による苦みが続き、服用しなければならない薬の多さや、成長期なのに食事が制限されるなど、日常の全てにストレスを感じていた辛い日々だったと陽子さんは振り返っています。さらに肝機能は悪くなり、とうとう2ヶ月後に主治医から「残された治療方法は脳死肝移植しかありません」と告げられました。 この時陽子さんは、すでに大人と並ぶほどの体格になっていたため、家族から肝臓の一部を提供してもらう生体肝移植では不十分な結果になるとも説明されました。お母さんは、「移植しか助かる道は無いと言われたことより、私の肝臓を使った生体肝移植ができないことのほうがショックだった」と陽子さんに語ったそうです。日本では脳死肝移植が受けられる希望がほとんど無いため、オーストラリア行きを決意しなくてはなりませんでした。ところが、そこに大きな問題が待っていました。
 陽子さんは、入院していた東北大学医学部付属病院の病棟で、生体肝移植をした人と仲良くなりました。その人の話で、移植に関する知識はある程度持っていましたが、海外での脳死肝移植はピンときませんでした。「よく解らないけれど、治りたい。もう一度学校へ行きたい」という気持ちだけが陽子さんの支えとなり、家族もその思いを叶えるべくオーストラリアで移植を受けるための膨大な費用の工面を決意します。手術費用は約千四百万円、旅費や現地で滞在する費用に最低でも三千万円。陽子さんが命あるうちに果たしてこの費用の調達ができるものなのか、母親は不安な日々を過ごしていました。 陽子さんと家族の苦悩を知って善意の輪が広がっていきました。高校の校長を始め教職員、生徒、後援会、同窓会、卒業生の父母の会、そして地域の人達が一体となって募金活動による支援体制を整えました。街頭に立ったり、新聞やテレビに協力を要請するなどあらゆる手を尽くした結果、目標額を越える浄財が寄せられたのです。「この募金活動には、本当に助けられました。校長先生、地元や病院など周囲の方々に恵まれたことを感謝しています」。その後も全国から支援金が寄せられましたが、移植手術の後に「日本での移植医療の研究と私のように移植を待つ病気の人のために使って欲しい」と寄付しました。
 募金が集り、渡豪の日が翌‘93年3月9日に決まりました。当日、成田からオーストラリアの北東部にあるブリスベンに到着した陽子さんは「豊かな緑が素晴らしかった」と強い印象を受けたことを覚えています。翌日には、プリンセス・アレクサンドラ病院に検査入院。付き添っていた家族は、病院から歩いて5分のところにアパートを借りました。ここには、同病院で移植手術を待つ患者と家族が日本人も含めて6家族入っていました。さらに病院には、毎月のように日本人が移植をするために入院し、一時は7人にまでなったそうです。母親が日本の校長先生にあてた手紙には「こんなに日本人が多くていいのでしょうか。」と書かれています。陽子さんには言葉の壁があったものの、日本人が多くて友達もでき、何よりも病院が大らかでのんびりしていることが精神的に助かったようです。日本では車椅子で動いていたのに、オーストラリアでは食事制限も無く、食べて歩いて体力を付けなさいという指導。看護婦さんは辞書を片手に何時間も相手をしてくれるし、何も心配しないように励まし続けてくれました。落ち着いて海外生活を過ごすことができ、焦りも無かったといいます。現地で移植コーディネーターをしている山岡友紀枝さんの公私にわたるサポートも大変心強く感じ、これは後に彼女の生きる道を左右する出会いのひとつになります。
 4月21日。陽子さんが、身体に入っているパイプを抜く処置をするために病院に行くと、突然「これから移植手術を行います」と告げられました。母親が慌ただしく手続きや準備をしている姿を見ても、陽子さんは不思議と大変落ち着いていたそうです。くも膜下出血で脳死となった50歳の女性がドナーだったと後で聞かされました。 同病院のラッセル・ストロング医師とステファン・リンチ医師の執刀による移植手術は成功。術後3日目には歩く練習を始めました。拒絶反応やむくみがありはしたものの、順調に回復していく陽子さんですが、微妙な症状を伝えたくても言葉の違いからなかなか理解してもらえず、心細さやストレスがたまったこともありました。肺に水が溜まったり傷口が開いたりということにも一喜一憂。そうするうち、術後1週間で食事制限は解除、シャワーもOKが出ました。移植が日常に行われている国ならではなのか、患者を早く日常生活に復帰させるための積極的な指導と言えるでしょう。 5月13日には退院。アパートからの通院は週3回から次第に減り、6月14日からは週1回に。順調な陽子さんに7月15日、帰国許可がでました。「オーストラリアに来なければこの喜びはやってこなかったでしょう。海外から多くの患者を受け入れる体制にひたすら感謝するだけです。」8月5日、陽子さんはすっかり元気になって日本に再び戻ることができました。
 9月には多くの友人に温かく迎えられて高校に復学。すでに高校を離れて1年7ヶ月が経っていました。本人の頑張りと周囲の熱意に支えられ、どうにか全ての単位を修得して‘94年6月に無事高校を卒業しました。「食事もおいしく、スポーツもできる、身体に付いていた胆汁を溜める袋も無くなり、うつ伏せでも寝られる、移植前に13錠飲んでいた薬もたったの2錠、そんなささやかなことが本当に嬉しい毎日でした。今は、薬の副作用も全く無く、月に1回検査のために通院する他は、普通の人と何も変わらない健康な毎日を送っています。」 陽子さんは、オーストラリアで見た医療の素晴らしさと、自分の体験を今後に生かしていきたいと考え、看護婦になる決意をしました。准看護学校を経て現在、正看護学校で研修に追われる忙しい日々を送っています。 来年の卒業後には、大きな病院で総合的な勉強と経験を重ねてから、移植医療に役立つ仕事に就きたいと語る姿は、とても移植をした人には見えない力強さを感じます。 「オーストラリアが受け入れてくれたから、ドナーがいたから、今の自分があるんです。もし、それが無かったら私はここに生きていないでしょう。患者としての立場もわかるし、看護婦としての知識も身に付けているところです。かけがいのないこの命と体験を是非、移植を待つ人々に役に立てたいと思っています。日本でも、臓器移植法が施行されるなどせっかくここまで来たのだから、時間はかかってもどうにか乗り越えてもう1歩すすんで欲しいですね。多くの人の理解が得られて、海外の移植の状況に近づいていくような医療に参加したいです。」
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