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小冊子 think transplant

いのちの贈り物
~あなたの意思で救える命~
think transplant Vol.16 

あのときの経験が私の進路を変えました

 
突然の連絡・・・5時間前とは別人のような母

高校卒業を間近にしていた私は校内のプールで趣味の水泳をしていましたので何件も着信が入っていたことに気づきませんでした。何時間か経って、携帯電話を確認したところ、録音が入っていました。「お母さんが病院に運ばれました、至急○○病院に向かってください」その番号に折り返した後、病院に向かいました。向かう途中、何か大袈裟に言っているだけで、本当は特に大変なことではないだろうと考えていました。母はこれまで大きな病気などしたことはなかったからです。健康診断も毎年行っていました。  病院は大きな病院でした。父に連絡を取り、院内に入りました。その険しい表情で何かを覚悟しなければいけないと感じました。母と会いました。時間にして、およそ5時間ぶりの再会だったと思います。そこには5時間前に自転車に乗っていた人とはまるで違う人が横たわっているような感覚でした。しかし、いろいろな管やモニターがつながれていたのはまぎれもなく母でした。くも膜下出血と診断されました。 母は私に影響され、趣味で近隣のスイミングスクールに通っていました。突然プールの中でコースロープにもたれかかるように倒れたそうです。 私は感じました、これは助からないと。一人になりたくなって、そして今までで一番泣きました。どれくらいの時が経ったのか分かりません。遅れてきた叔父が私を見つけて言いました。「お前がしっかりしないでどうするんだ」と。 私はその言葉で冷静さを取り戻したと思います。私は長男で、妹がいます。母方の祖母もいましたし、母の妹もいます。現状を受け止めなければいけませんでした。父は一切私の前では涙を見せませんでした。自分はしっかりして、ちゃんと見送らなければいけない。祖母を支えなければいけない。

 
「何かあったら、全て使ってくれていい」

医師から今の状態の説明を父と祖母が受けました。脳死という状態でした。臓器提供の話を父が申し出たそうです。臓器の提供をするときには専門の移植コーディネーターという人から話を聞くことができるので父は話だけでも聞いてみようと考えたそうです。父から同席するかと聞かれました。私は話を聞くことを希望しました。  正午を過ぎたころだったと思います。父、祖母、叔母、そして私は静かな部屋に案内されました。そこには、移植コーディネーターの方が2人おられました。詳しく臓器提供の説明をしていただきました。 私のような高校生にも質問はないですかと聞かれました。私も質問をしました。その後、コーディネーターの方は一度退席され、家族で話す時間が設けられました。  私の母は医療従事者でした。医療番組も多くテレビで見ていました。臓器移植の番組も見ていました。「何かあったら、全て使ってくれていい」と番組を見ながら言っていたことを父と私は思い出していました。今振り返ってあのとき、家族の中でどういったやり取りがあったのか詳しいことは覚えていません。  私たちは心停止後の左右の腎臓提供の承諾をしました。コーディネーターの方には何度も「摘出手術の前なら提供をやめることはいつでもできる」と聞きました。しかし、少なくとも私は臓器提供が母の意思であると思っていたので、やめることをあまり考えませんでした。  翌日、夜亡くなりました。入院して3日目のことです。腎臓の機能も悪くなってきていて、提供は難しいかというところでぎりぎりだと聞きました。  祖母と妹を皆で支え、手術室へ母を送り出しました。娘を亡くした祖母、姉を亡くした叔母、母を亡くした私と妹、そして妻を亡くした父。それぞれが何を思い、そして母を送り出したかは分かりません。ただその時の祖母の姿を私は一生忘れないと思います。 

 
その後

母よりも少し年上の方と、10歳未満のお子さんが移植を受けたそうです。「移植を受けられた方は、順調に回復しました」とコーディネーターの方から伺いました。移植されたお子さんの親御さんからサンクスレターも受け取りました。いつでも見ることができるようにしています。  葬儀から数日後、家を片付けていたときに、黄色い意思表示カードが見つかりました。臓器提供しますと書かれたそのカードを見つけたとき、私たちは少し救われる気持ちになったのを覚えています。  あれから何年も過ぎましたが、あのときの経験が私の進路を変えました。今では人の命に関わる仕事をしています。

 

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